「アジア太平洋」から「インド太平洋」へ~日本外交の変化をどう見るのか
世界の未来決めるフロントラインは日本―能動的外交で米中対立緩和を
田中均 (株)日本総研 国際戦略研究所特別顧問(前理事長)、元外務審議官
日本の外交の基本姿勢が変わった。国際環境が変わったのだから外交姿勢が変わって当然なのだろうが、どう変わったのだろうか。それは好ましい変わり方なのだろうか。日々の外交に携わっているわけではないので、私の見方は正しくないのかもしれない。しかし今日、外交の根幹にかかわるような本質的な変化が起こっていると感じざるを得ない。
戦後の原則―アジアの一員の立場堅持
戦後の日本外交の三原則は、1.国際連合中心、2.自由主義諸国との協調、3.アジアの一員としての立場堅持、だった。

北京で華国鋒中国首相と面会する大平正芳首相。この訪中で政府開発援助を約束した=1979年12月5日
国連は常任理事国として中国・ソ連(その後、ロシア)が存在しているので、政治安全保障面では機能しなかった。「自由主義諸国との協調」は外交の基軸としての日米関係を意味し、「アジアの一員としての立場堅持」とは矛盾する場合も多く、外交当局者を悩ませた。軍事独裁政権だった韓国との関係や共産党一党独裁体制の中国との関係が典型的な例だった。
それでも日本はアジアの隣国として「漢江の奇跡」と言われた韓国の飛躍的成長を助け、米国の反対を押し切り開始した政府開発援助で中国のインフラ作りに大きく貢献した。冷戦が厳しくなった時点においては、ソ連を孤立させるうえで中国や韓国を助け協力関係を強化することは西側の戦略的利益にかなうという意味で矛盾は少なくなっていった。
冷戦後は「アジア太平洋」重視。日米関係強化も同時達成
冷戦が終わった後の日本外交の基本姿勢は「アジア太平洋」重視だった。これはアジア重視と日米関係強化を同時に達成する概念だった。
このため日本自身が能動的に外交を展開し、APEC(アジア太平洋経済協力)・ASEAN(東南アジア諸国連合)と日・米・中などとの対話の枠組み(ASEAN+1)・東アジアサミットなど米国を巻き込む形で中国を含むアジア太平洋の地域協力を重視してきた。北朝鮮問題でも六者協議を作ったのは日本外交だった。
同時に米国との安全保障体制強化をはかり、日米安保共同宣言や防衛協力ガイドライン、周辺事態法を制定し、インド洋やイラクに自衛隊を派遣していった。

第1回東アジアサミットのクアラルンプール宣言署名式で手を取り合う参加国首脳ら。右から4番目が小泉純一郎首相。その左隣は中国の温家宝首相=2005年12月14日