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ラオスから日本に逃れて40年 インドシナ難民レックさんがいま思うこと

入管法を拙速に変える前に耳を傾けたい日本で生きた難民たちの切実な声

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 出入国管理及び難民認定法(入管法)が今、大きく変えられようとしている。様々な人道上の問題が国連の作業部会やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などからも指摘されているが、難民申請者に大きく関わるのは、難民申請中の者であっても送還が可能になってしまう点だ。

 現在、国会で審議されている入管法政府案には、法務省が難民と認めない決定を2回下した場合、それ以降は強制送還が可能となってしまう内容が盛り込まれている。だが、そもそも日本における難民認定は、非常に狭き門だ。昨年2020年の難民認定者数はわずか47人、その認定率は1.2%に留まっている。

1万人超のインドシナ難民を受け入れた日本

 難民受入について発信をすると、必ずといっていいほどネット上で「負担になるだけ」「そんなに大人数は不可能」という、ネガティブなリアクションを受ける。けれどもかつて日本が、1万人を超えるインドシナ難民を受け入れてきたことは、どこまで知られているだろうか。

 1975年のベトナム戦争終結後、「インドシナ三国」と呼ばれるベトナム、ラオス、カンボジアが相次いで社会主義体制に移行した。目まぐるしい社会の変化のなか、新たな体制下での迫害を恐れる人々などが、国外へと逃れていった。その人数は140万人以上といわれている。なかでもボートに乗り、海を渡って逃れようとした人々は、「ボート・ピープル」と呼ばれていた。

 「私は日本語を学んでいたし、髪の毛や肌の色も近い日本なら、言葉を発しなければ外国人とは分からないかもしれません。アメリカなどに行くよりも、なじめるのではないかと思ったんです」

 そう語るのは、1979年にラオスから逃れ、難民として日本へ渡ってきた新岡史浩さんだ。日本国籍を取得する前の名前はレック・シンカムタンさん。

 当時35歳だったレックさんは今、75歳、日本で生活をはじめて40年となる。現在は難民事業本部という組織で、相談員や通訳として活動を続けている。

レック・シンカムタンさん(筆者撮影)

9人兄弟の末っ子。水道局で働き、日本で研修

 レックさんは、ラオスの首都ビエンチャンから70キロほど離れた農村に生まれた。家族は農家を営み、9人兄弟の末っ子だった。

 レックさんが小学校に入学して間もない1953年、フランスの植民地だったラオスが完全独立。時代が目まぐるしく変わろうとしていた。ただ、貧しい生活とはいえ、両親が作る米があれば、なんとか生活をつなぐことができた。

 独立後もラオスは安定した社会基盤を築けず、内戦状態へと陥っていく。小学校を卒業した翌年の1960年にはクーデターが起きるなど、進学もままならない情況だった。翌年、首都ビエンチャンの学校に進み、卒業後は水道局の職員となった。

 ひとつの転機となったのは、1965年の日本への渡航だった。その3年ほど前から日本政府の援助が入っていた関係で、半年ほど研修を受けるため、日本に滞在する機会を得た。「五輪が終わったばかりの日本は発展していて、とにかく物価の高さに驚かされましたね」と、当時を振り返る。

 その後、日本から帰国したレックさんに、幾多もの困難が襲いかかることになる。

メコン川を渡ってタイに逃れる

 1975年の政変後のことだった。家族と夕食を囲んでいると、突然、銃を携えた兵士が自宅を訪れ、言われるがままに「郡長」の元へと連行された。「スパイ容疑をかけられたのか、もう終わりでは」という恐怖がよぎったが、彼らはレックさんに、政権交代の式典での若者代表のスピーチ、食料の運搬といった「仕事」を次々と命じていった。

 ところが、同じ場で働いていたはずの旧政権側の人間が、一人、また一人といつの間にかいなくなっていくのにレックさんは気づいていた。「政治教育を受けている、戻ってきたら立派な人間になっている」という建前で、かれらは次々と姿を消していったが、実際には家族と連絡さえとれていなかった。

 「こうした状況では、自分の未来が見えない、子どもの将来もないような気がしていました。混乱の中で、学校もまだはじまっていない頃です。家族と相談し、国外へと逃れるしかない、と決めました」

 当時、娘はまだ8歳、息子は4歳だった。逃避行中、全員が一緒に見つかってしまえば、一家はまとめて殺され、誰も残らないかもしれない。まずはレックさんが先にラオスを脱し、後から家族を呼び寄せることにした。

 「2カ月間、川の周辺を慎重に調べました。仕事が終わった後、メコン川沿いを自転車で走りながら、どの辺に交番があって、どの辺に身を隠せる場所があるのか、くまなく見て回ったんです」

 逃れると決めたのは7月、メコン川は雨季で増水し、水の流れも速い時期だった。意を決して空のポリタンクを体にくくりつけたレックさんは、対岸へと泳ぎだした。隣国タイ側から照らされる監視ライトを潜り抜け、1キロほど下流に流れながらも、タイ側に向かっていった。

 無事泳ぎ切った後の問題は、妻と子どもにどう連絡をつけるかだった。政権は変わったものの、国境を行き来するトラックの運転手たちがいる。その中に偶然、親戚の姿を見つけ、小さな紙に書いた手紙を彼に託した。

家族も呼び寄せ、難民として日本へ

 手紙が見つかれば、運転手自身も命はない。彼はたばこのケースにそれを忍ばせ、ラオス側の家族の元へと届けてくれた。こうして、たび重なる危険をかいくぐり、なんとか妻と子ども2人を、タイ側へ呼び寄せることに成功した。

 当時、レックさんが身を寄せた難民キャンプの人口は、10万人ほどの規模にふくれあがっていた。倉庫のような場所を8畳ほどに仕切り、各世帯がぎゅうぎゅうになりながら生活を続けていた。国連が毎週、配布する食料を頼りにしてはいたものの、とても足りる量ではない。キャンプでは強盗や殺人などが横行し、治安は荒れていた。

 海外から送金を受けられる人と、そうではない人との格差もあった。「海の向こうにツテがない私たちは、知恵を絞らなければなりませんでした」。キャンプ内の事務所に仕事を求め、「自分は文字をきれいに書ける」とかけあうと、かろうじてタイ語や英語など、キャンプ内の看板を作る仕事を得ることができた。

 こうして待つこと4カ月。日本に難民として渡り、兵庫県の姫路定住促進センターで3カ月の研修を受けることになる。日本では当時、インドシナ難民の受け入れがはじまったばかりということもあり、定住支援のあり方も定まっていなかった。

 「私は日本語を学んできた経験がありましたが、他の人たちにとっては、3カ月という期間で日本語を身に着けて生活するのは難しかったでしょう」

 その後、神奈川県綾瀬市の工業団地に居を移して工場に就職したが、5年後に会社は倒産。複数の工場を渡り歩いた後、定住促進センターに通訳として携わるようになったのが、現在の活動の原点だった。

2002年撮影、相談員としての活動をはじめた頃のレックさん(レックさん提供)

「一緒に買い物、来ないでよ」

 気がかりだったのは子どもたちの成長だった。娘は政変などの時期と重なり、ラオスの学校には通えていなかったため、教育のスタートは日本の小学校の1年生からだった。4年生になるまで毎日、レックさんがラオス語も教えていたものの、反抗期が始まり、「使い道がないじゃない。死ぬまで日本にいるでしょ?」と拒むようになった。

 娘さんなりに、「周囲の目」との葛藤があったのだろう。ある時、レックさんにこんな言葉を投げかけてきたという。

 「お父さんの顔、外国人に見えるから、一緒に買い物、来ないでよ」

 ラオスと日本では生活環境が違い、忙しい競争社会のなか、家族と過ごせる時間は限られていた。「なぜ、ラオス語を学んでほしいのかをゆっくり語る余裕がなかった」と語るレックさんの顔は、どこか寂し気だった。

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