ボン和平会議から20年。民主主義は根付かず、イスラム過激主義が復活
2021年05月03日
米国のバイデン大統領は4月12日に、アフガニスタンに駐留する米軍を対米同時多発テロから20年となる本年9月11日までに完全撤退させると発表した。発表によると、米新政権は5月より無条件で、同国に留まる2500人の米兵を順次撤退させるという。
米軍の一方的な撤退に対する、米国内や国際社会の懸念は根強い。
バイデン大統領は、米国が9・11テロの主犯である ウサマ・ビンラーディンを殺害してアルカイダを弱体化させたと指摘したうえで、「我々はアフガニスタンに侵攻した目的を達成している」と強弁し、自らの決断を正当化した。しかし大統領は一方で、「理想的な撤収条件を作り出すために駐留を継続することはできない」との本音をもらした。撤退の理由が、出口の見えない「米国史上最長の戦争」に幕を引くという、自国の都合による見切り発車であることを示唆したのである。
米国の諜報機関はバイデン政権に、アフガン政府とタリバンとの間の政治的和解の前に米軍が撤収してしまうと、「2~3年以内にアフガニスタンはタリバンに支配されるかもしれない」との懸念を伝えたと言う (“Officials try to sway Biden using intelligence on potential for Taliban takeover of Afghanistan”, the New York Times, 26 March 2021.)。
イスラム原理主義を掲げるタリバン政権の復活は、20年にわたって日本をはじめとする国際社会が支えてきたボン和平合意の崩壊につながり、同国で芽生え始めた民主主義や女性の人権の後退を招きかねない。さらには、タリバン庇護下で9・11テロを引き起こしたアルカイダや、一時期イラクやシリアで猛威を振るった「イスラム国(IS)」が息を吹き返して、アフガニスタンを国際テロの巣窟に逆戻りさせるかもしれない。
大きな転換点を迎えたアフガン情勢であるが、本論考では国連が主導した和平活動の裏舞台を振り返り、なぜ国際社会が総力を注いだアフガン復興が迷走したのかを検証する。とりわけ、アフガン国民が待ち望んだ民主主義が根付かず、タリバンが掲げるイスラム過激主義の復活に道を開いた原因を詳らかにしたい。検証にあたっては、ボン和平会議に国連代表団の一員として参加するなど、著者の7年余りにわたるアフガン紛争担当の国連政務官としての経験を最大限に活用したい。
米国がアフガニスタンで犯した最大の失敗は、アルカイダやタリバンのせん滅を目的とする対テロ戦争にこだわるあまり、アフガン新政権の独り立ちを目的とする復興支援を軽んじたことである。結果として、国際社会は長年の紛争で疲弊した同国の復興、すなわち国家再建(nation-building)を達成できず、新政権は国内の治安を自らの力で維持できないまま今日に至った。
9・11テロ後のアフガニスタンでは、二つの戦争が同時に進行していた。米軍主導の対テロ戦争である「不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom-Afghanistan, OEF-A)」と、アフガン新政権を支えるための多国籍軍である「国際治安支援部隊(International Security Assistance Force, ISAF)」による戦闘である(注1)。
注1:米国の「不朽の自由作戦」の法的根拠となったのは、国連安保理が9・11テロ直後の2001年9月12日に全会一致で採択した、米国など国連加盟国による個別的・集団的自衛権の行使を認める決議S/RES/1368(2001)である。一方、アフガン新政権を支援するISAFの創設は、安保理がボン和平合意の締結を受けて同年12月20日に採択した決議S/RES/1386(2001)による。
国連は9・11テロの直後から、タリバン政権崩壊後に民主的な新政権を樹立させるために、当時のブッシュ米政権と密接に協力していた。新アフガン政府樹立に当たって特に国連が重要視したのは、発足直後のひ弱なアフガン新政権を支えるISAFへの、米軍による全面的協力であった。国連は2001年末にブッシュ政権に対して、
1.NATO諸国の軍によって構成されるISAFの地方都市への展開の支援、
2.地方都市に展開したISAFが攻撃を受けた場合の米軍による航空支援、
などを要請し、米国はこれを受け入れた(注2)。
注2:国連内ではブッシュ政権の協力を担保するために、「ISAFへの米軍の協力義務を安保理決議に明記すべし」との提案もあったが、最終的に却下された。
ところが、アフガン新政権が動き始めた翌2002年2月になって、ブッシュ政権はISAF支援の方針を突然覆した。米国との二人三脚でアフガン和平にまい進した国連であったが、ブッシュ政権の「背信」により、二階に上がったまま梯子を外されることになった。
方針転換の背景には、対テロ戦争にはやるブッシュ政権の関心が、翌年に迫ったイラク戦争に移ったことが窺える。米国の不協力により、ボン和平合意の「重し」となるはずのISAFの展開は首都カブールに限定され、地方都市はタリバンの残党やムジャヒディンなどの旧勢力の脅威に晒(さら)され続けることになった。ISAFの全国展開の失敗により、アフガン新政権はタリバンの影響が残る同国の東部や南部で、徴税や選挙など国家としての最低限の機能を果たすことができず、今日の不安定な政権運営の原因となった。
米国の失敗は、ISAFへの不協力に止まらない。ブッシュ政権は不用意に対テロ戦争をイラクにまで拡大したため、世界のイスラム教徒の間でアフガン戦争の目的が「タリバンからの解放」や「民主化」ではなく、「イスラム教国への不当な侵略」であるとの誤解を生んでしまった。その結果、タリバン支持者など一部のアフガン国民の間では、国連の復興活動さえも反イスラム的な欧米の価値観の押し付けと見なされるようになった。
治安維持のもう一つの柱は、NATO諸国によるアフガン国軍や警察の再編成と訓練であった。しかし、全国的な治安維持がなされず、部族の違いを超えた民主主義が未発達の状態の中で行われた治安機構の再編は、国際社会の膨大な財的・人的支援にもかかわらず迷走を極めた。現在に至っても、アフガン国軍の士気は低く、戦意旺盛なタリバンの攻勢を単独で防げずにいる。
極端な女性差別など過酷な統治で有名になったタリバンであるが、その起源がアフガニスタンではなく、隣国のパキスタンにあることはあまり知られていない。
パキスタンで生まれ、パキスタンによって成長し、パキスタンによって操られるタリバンに対応するためには、同国にアフガン政策の抜本的な変更を迫る必要がある。しかし、パキスタンのアフガン政策の根底にあるインドとの緊張が和らぐ兆しは見えず、「パキスタン問題」は放置されたままである。
タリバン運動は、1990年代の初期にパキスタン北西部のアフガン難民キャンプの若者の間で発生した。ソ連軍の撤退後に骨肉の権力闘争を繰り広げるムジャヒディン(聖戦の戦士)を見限った若者たちが、「我々こそ真のイスラム教徒である」と宣言して、祖国を「腐敗した似非イスラム教徒」から解放するために立ち上がったのである。
この新興勢力を強力に後押ししたのが、対インド戦略の観点からイスラム原理主義勢力を支援するパキスタン軍部であった。パキスタン軍にとって、アフガニスタンは将来の対インド戦で兵器や部隊を温存できる後背地にあたり、国防上の「戦略的深み(strategic depth)」を担保する重要拠点なのである。このためパキスタンは、ヒンズー教のインドに絶対に与しないイスラム教原理主義政権をカーブルに打ち立てることを、至上命題と信じて疑わないのである。
パキスタン軍とイスラム教原理主義との深い関係は、「公然の秘密」として広く知られている。例えば、パキスタンは長年にわたって、9・11テロを首謀したオサマ・ビンラディンはアフガニスタンの山岳地帯に潜伏していると主張してきた。ところが、アルカイダの最高指導者が2011年5月2日に米軍特殊部隊によって殺害される直前まで潜んでいたのは、アフガン辺境の洞窟ではなく、パキスタン軍が陸軍士官学校を置くアボッターバードというイスラマバード近郊の町であった。
国連はこれまで、パキスタン軍の中でタリバン支援を統括する統合情報局(ISI)と何度か接触を試みた。しかしISIは、「タリバンは自律的な運動で、我々は一切関わっていない」とはぐらかすだけで、実質的は交渉には至らなかった。アフガニスタンを自国の裏庭のように扱う露骨な干渉を見かねた国連は、9・11テロの前に数度にわたりパキスタンに対して異例の警鐘を鳴らした(注3) 。
注3:例えば、アナン事務総長は1999年8月6日に「今や数千人の非アフガン人が(タリバンの戦闘に)加わっている」と指摘した(DPI Press Release SG/SM/7090)。続いて彼は、同年9月21日の安保理と総会への報告書の中で「タリバンの攻勢は、パキスタンのマドラッサ出身の多くの非アフガン人を含む2千から5千人の新兵によって補強されている」と述べ、あからさまにパキスタンを非難した(事務総長報告書A/54/378-S/1999/994)。
パキスタン国内でイスラム原理主義の温床となっているのは、アフガニスタンとの国境に沿って広がる部族地帯(tribal areas)である。英領インド時代から中央政府の統治が及ばないこの地帯では、タリバンの母体であるパシュトゥン族が居住して、厳格なイスラム法に基づいた社会生活を営んでいる。
そんな部族地帯はタリバンにとって、米軍が容易に手を出せない格好の安全地帯となった。このため米軍は、2千キロ余りにわたる国境線の到る処で自在に現れては消えるタリバン兵を追い回すという、「モグラ叩き」のような消耗戦の泥沼に引き込まれた。圧倒的な軍事力を持つ米軍が、近代兵器を持たぬゲリラ勢力にすぎないタリバンに手を焼いたのはこのためである。
国連は9・11テロの前に、パキスタンからの武器や兵員の流入を制限するための国際監視に必要な兵力を非公式に試算したが、10万人もの兵員が必要との結果となり政策の選択肢とはならなかった。
タリバンによる女性差別は、女子の小学校の閉鎖、女性の就労の禁止、男性医師による受診の禁止、全身を覆い隠す伝統衣装「ブルカ」着用の強制、など常識外れの措置が含まれるが、同様の因習は部族地帯にもみられる。ちなみに、女性教育の重要性を訴えた当時15歳の少女マララ・ユスフザイが、2012年10月9日にタリバンによって銃撃され、瀕死の重傷を負ったのもこの部族地帯であった。
米国のオバマ政権はパキスタンがアフガン和平のカギを握ると判断して、アフガン問題をパキスタンがらみの「アフパック(Af-Pak)問題」と再定義したうえで、リチャード・ホルブルックを特使に任命した。ボスニア紛争の終結に尽力したホルブルックであったが、インドとの領土問題を抱えるパキスタンの反インド感情は根深く、目立った成果をあげられなかった。
タリバン後の新政権の樹立を急ぐ国連は2001年11月末から、ドイツのボンで和平会議を緊急招集した。しかし、急ごしらえのボン和平会議では、民主的な憲法の制定や総選挙への道筋に合意できたものの、タリバン支持層であるパシュトゥン多数派部族を取り込むことができず、和平の行方に禍根を残すことになった。
ボン和平会議の目的は、アフガン内外から当事者を和平会議に招待して、タリバン後の新政権樹立に向けた道筋を話し合うことであった。会議はボン近郊に位置する山頂のホテルを借り切って、上空の飛行が禁止されるなど厳重な警戒の下に、8日間にわたり缶詰め状態で行われた。和平交渉は、国連とアフガン当事者や関係国との間で非公式に執り行われたが、その詳細はこれまであまり知られていない。
和平会議を急いだ理由は、
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