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21世紀の日本が取り組むべき課題はこれだ!~成長信仰の幻想を断ち切る

国民生活を直接担保して保障する、公平で透明性の高い世の中への移行こそ

小川淳也 衆議院議員

 国内外に課題が山積する今、政治はそうした課題にどう向き合い、解決すればいいか――。現役の国会議員が、それぞれ関心のある分野について、課題とその解決策について論じるシリーズ「国会議員、課題解決に挑む~立憲民主党編」。今回は小川淳也衆院議員の論考です。人口減少に転じた日本に必要な、成長信仰の幻想を断ち切った新しい針路について、歴史的な視座を踏まえて論じます。コメント欄にぜひ、ご意見をお寄せください。(論座編集部)

衆院予算委で質問する立憲民主党の小川淳也氏=2021年1月25日

失われ、彷徨い続けた30年

 平成の30年はなぜ「失われ」、私たちは彷徨(さまよ)い続けてきたのか。

 結論を先に申し上げれば、成長信仰への幻想を断ち切れないまま、しかしそれを実現できず、結果として様々な迷走を続けたのではないか。

 安倍自民党が2012年の衆院選で掲げたキャッチフレーズは「日本を、取り戻す」。一体誰から、何を、どのように「取り戻す」のか? もちろん、直前の旧民主党政権へのあてこすりもあっただろうが、安倍首相が取り戻したかったもの、それは端的に言えば「明治の軍事力」と「昭和の経済力」ではなかったか。 そして、その幻想が残したものは、結局さらなる迷走と幻想の上書きではなかったか。

 この先、昭和の成長信仰から抜け出し、新たな時代を突き進むにあたって、「持続可能性」という最大の価値を手にし、未来への針路を確かなものとしなければならない。政治のみならず、国民の意識改革を含めた抜本的な方向転換が求められる。

自民党の新しいポスターを発表する高市早苗広報本部長=2012年10月25日、東京・永田町の自民党本部

人口増大局面の経済と人々の暮らし

 成長信仰の原点にある昭和の成長期は、まず人口が増大局面にあり続けた。若年世代が多く、高齢世代は少なかった。これに伴い経済は拡大し続け、その恩恵にすべての人と企業が浴した。

 会社の大小はあれ、ほとんど全員がいわゆる「正社員」となり、新卒一括採用、終身雇用、年功序列の賃金体系、これらがほぼ自動的に担保された。このなかで政府は、いわば「経済成長」を担保する代わりに、人々の「暮らし」を個人の「自助努力」に任せ、福利厚生を含めた企業の扶養責任に委ねた。これがある意味許される時代だった。

 当然、特に現役世代への社会保障は、先進国の半分以下であり、人々がそれぞれ人生を自己責任で設計し、自ら「生活保障」を担保せねばならなかった。「経済成長」が担保されることとセットで、これが当然視されてきたのである。

人口減と高齢化に伴う「構造問題」が顕在化

 しかし、平成の世に入って以降、バブル崩壊や長引く景気低迷により、こうした前提は徐々に崩壊した。

 人口は2000年代前半から減少に転じ、平成の30年、経済はほぼ低成長、ないしマイナス成長。これは政策の失敗なのか、国民のマインドの問題なのか。もちろんそうした面もあるかもしれないが、本質的には人口減と高齢化という構造問題であり、掛け声や短期対策で解決する代物ではない。長期ビジョンに基づく、価値観の組み換え、そして政策面の構造的なアプローチが必須である。

 それは、生産と消費の拡大を本質とする経済成長を前提に、人々の暮らしを自己責任、自由放任のもとに置く考え方を改め、人々の生活を政府がダイレクトに保障するという、新たな理念と哲学の再構築でもある。

 政治は「経済成長」から「生活保障」へ、そのテーゼを大胆に切り替えるべきときを迎えている。

エネルギー・技術の革新で人口が急激に拡大

 ここで、上記の構造問題の根本にある人口の推移について、将来推計も含めて概観しておきたい(下図参照)。

 極端な人口増大期は、実は歴史上極めて少ない。平安時代まで遡っても、日本の総人口はおよそ800万人から1000万人程度であり、江戸時代までほぼこの水準のまま横ばいだった。

 江戸に入って天下泰平の世が訪れ、同時に農業技術の革新で生産力が高まったことで、江戸前期の人口は1600万人から3000万人台へと大幅に増大した。しかし、江戸中期以降、山がちな日本列島においては、農耕経済下でこれ以上の生産拡大は望めず、人口は3000万人台のまま飽和状態となり、江戸末期までその水準で推移することとなる。

 問題となるのは明治以降だ。政治体制の刷新とともに、イギリス発祥の産業革命に必死で適応を試みたのが明治維新の本質だ。富国強兵の号令のもと、化石燃料を掘り起こし、莫大な生産力を獲得する体制整備に力が注がれた。その結果、わずかその後百数十年で、人口は3000万人から1億2000万人へと、4倍に膨らませたのである。歴史的に極めて異例かつ異常な拡大膨張路線だったと言える。

 ただ、このあまりにも急激なこの上昇カーブは、日本のみの現象ではない。世界を見渡しても、産業革命以降同様の上昇曲線をどの国も描いている。つまり、この急拡大膨張路線は、産業革命によってもたらされた、エネルギーと技術の革新に依るところが大なのである。

人口減少期に入った平成

 そして、ついに昭和末期から平成の30年、日本では人口増大が止まり、徐々に減少に向かった。そしてその減少スピードは加速の一途をたどっている。同時に進行する高齢化の影響もあり、経済の不拡大と成長率の低下が社会を一変させ、我々の頭を悩ませ続けた。大きな原因の一つは、依然、我々の頭の中が、人口増大、経済成長路線の幻想に支配されたままとなっていることにある。

 もし、人口が増え、経済が成長することに合わせて、地球が大きく成長するのであれば、むしろ何の問題もない。しかし、現実はそうはいかない。この地球上で養える人口と、維持できる経済には、資源、エネルギー、環境面の重大な制約があり、いよいよ日本と世界はその制約に直面したと言って良い。

 今後、正しく軌道修正を果たし、社会の「持続可能性」の回復を基調とした、新たな思想と哲学、そして経済・社会の仕組みを整える他に道はない。

 これこそが、21世紀に人類を挙げて、そして日本が先頭に立って取り組むべき、歴史的・文明史的転換点である。そして我々は、どこまでそれをはっきりと自覚しているかは別として、既にその入り口をくぐって久しい地点にいる。

Pilotsevas/shutterstock.com

「脱成長時代」の政治と政策体系の根本とは

 人口と経済の拡大を前提とせず、定常化した人口、均衡化する経済を前提に、いかなる社会像を描くのか。そしてどのように具体的に地球環境と経済との調和や、国民生活の保障を図っていくのか。令和時代の最重要の政策課題となる。

 新たな時代の理念のもとでは、国民生活は政府によって直接保障されるべきであり、そうした枠組みへとパラダイムシフトが起きる。これがまさに「脱成長時代」の政治であり、政策体系の根本である。

 持続可能性を基調とする時代の政治は、これらを旨としつつ、公平かつ透明性が高く、信頼の厚い政治体制・政策体系として、新たに社会にインストールされねばならない。

日本の自己改革こそが世界の命運を握る

 遠い将来、この明治から戦後にかけての人口増大と、経済の膨張が、人類史上いかに異例かつ異常な時代だったかを、後に我々は振り返ることになる。そして目下のところ、この異常な時代の矛盾と苦しみを加速し、問題を深刻化・顕在化させているのが、ほかならぬ世界のコロナ禍である。

 現下のコロナ禍は、世界に“ポストコロナ”の経済・社会像を模索すべきことを強いている。成長信仰から脱却し、「GDP教」とも言うべき信仰の体系と決別し、国民生活を直接担保し、保障する政治を求めている。公平で透明性の高い社会に移行することを促している。まさにこの改革は、思想改革を含み、一種の宗教改革に近い。

 そして我々の日本列島は、成長拡大路線の行き詰まりという意味において、世界の最先端にある。ただ、韓国も昨年から人口減に転じたようであり、中国も来年から人口減に転じると言われている。これは世界のどの国もやがては免れることのできない、必然の路線なのだ。

 それだけに、この難問に、世界に先駆けて回答を見出すことができれば、日本は世界にとっての価値となる。

 世界が「成長の20世紀」から「持続可能性の21世紀」へと大きく進路転換しようとしつつある今、その先頭ランナーが紛れもない私たちの国日本であることを明確に自覚し、問題を定義しなおさなければならない。それは日本自身のためであると同時に、世界のためでもあり、日本の自己改革の可能性が、世界の命運を握る、とまで自覚を深めようではないか。

日本と世界の21世紀の針路

 この議論の中で今後、大きな基軸となる二つの点を指摘し、本稿を終えたい。

 これまでは経済成長に伴って、全ての会社は売上を高め、人々は年々の賃金上昇の恩恵に浴し、生活向上を達成することができた。しかしこれからは、経済の拡大を前提とせず、地球環境との調和を旨とした「均衡経済」のもと、人々の暮らしの基盤を整えることに、これまで以上に政治が直接介入しなければならない。

 それは、子育てや医療、教育、福祉、介護などあらゆる社会サービスについて、サービスそのものの底上げを図り、人々の暮らしを自己責任から解放するものである。そしてそのサービスを無償ないし低廉・安価で、すべての人々に自由に開き、アクセスを容易にする社会を目指す。

 合わせて政府による生活保障は、より直接的な現金給付にも向かう。企業の自主的な賃上げに、国民生活の安心と将来設計をゆだねるのではなく、直接かつ普遍的な現金給付を通して、国民の最低生計保障を担保するのである。

 そして、これら現物・現金給付の抜本拡充は、莫大な国民負担を要する。私は、現下のコロナ禍による経済と暮らしの傷みを前提とすれば、消費減税や反緊縮、そして大規模な財政出動に賛成の立場である。しかし、それには残念ながら未来永劫に渡る「持続可能性」まではない。

 長期安定と持続可能性回復のために、こうした手厚い公的給付を実現し、それを賄う国民負担のあり方について、逃げず隠れず、真っ正面から議論する政治が求められる。こうした国民負担と公的給付の水準は、おそらく今後の政治と国民との「信頼強度」によって規定される。

 こうした思想改革、経済社会改革はとりもなおさず、政治改革に行き着く。政治と国民との「信頼強度」という関係性の改革に行き着くのだ。

 それは果てしない、極めてハードルの高い道のりかも知れない。しかし、アベノミクス、成長戦略、地方創生、一億総活躍と、数々並べ立てられて来た表層的なスローガンのむなしさに比べれば、遥かに芯を食った、構造的かつ本格的、本質的、長期的なアプローチになるに違いない。

 環境調和、均衡経済、公平で透明性の高い再分配、政治と国民との高い信頼強度、安心で信頼に持続可能な社会。

 これが、日本と世界の21世紀の針路である。