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AIが感情と意識を持つことは可能か

『クララとお日さま』『隠された泉』が教えてくれること

塩原俊彦 高知大学准教授

 人工知能(AI)と呼ばれるものの将来を考えると、AIを組み込んだ「ロボット」なるものに感情や意識をもたせることが可能になるのか、といった疑問がわく。そもそも、そうしたものを機械(マシーン)に覚え込ませることはできるのか。そのためには、何が必要なのか。いろいろと疑問がわいてくる。こんなとき、未来小説を読むと、読者は刺激され、未来の一端を垣間見たかのような気分になる。

 そんな期待を込めて、カズオ・イシグロ著『クララとお日さま』(早川書房)を読んだ。ここでは、この本に刺激されて思い浮かんだ感情と意識の問題について語りたい。地政学を研究していると、遠い将来を見通し、その予測をどう現在に投影させるかが近い未来を考えるうえで役に立つ。そうした観点からみても、本書は興味深いのだ。

カズオ・イシグロ=2017年10月5日、ロンドン

「人工親友」クララ

 主人公は「人工親友」(AF=Artificial Friend)と呼ばれるロボット、クララである。クララは人間に仕えるAFであり、主人たる少女ジョジーのために彼女の感情について学びながら、主人のために行動するのである。いわば、AIが人間の気持ちを理解し、人間の心にまで感情移入して、その人間に寄り添い、その人間のために行動できるのか、という問いが重要な問題提起の一つになっている。

 ジョジーの母親がクララと交わした会話を紹介したい。

 母親がまた口を開いたとき、今度は、わたしに話しかけているとすぐにわかりました。
 「感情がないって、ときにはすばらしいことだと思う。あなたがうらやましいわ」
 わたしはしばらく考え、「わたしにも感情があると思います」と言いました。        
 「多くを観察するほど、感情も多くなります」
 母親がいきなり笑いだして、わたしを驚かせました。「それなら、観察なんて一所懸命やらないほうがいいんじゃない?」と言い、「ごめんなさい。これは失礼だったわね。そう、あなたにもいろんな感情があるんだ」と付け加えました。

 AIは「人工知能」の略だが、AIに知能はあっても、感情はあるのだろうか。そもそも、知能が働いているとき、人間には意識はあるのか。感情が作用するとき、意識はどうなっているのか。こんな疑問がわく。AFであるクララに感情があるということは、クララは意識をもち、自分の意識に基づいて自立的に行動していることを意味しているのだろうか。

 こんな難題を解決するために、まず、意識という問題について考えてみたい。人間と自然との間に、意識を見出し、その意識にかかわる生産という物質的生産だけでなく精神的生産を含む生産活動に法則性があると考えたカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスがいたからである。

 マルクスらの主張が「科学的」であると標榜された背景には、人間社会にも自然と同じく客観的な法則があり、そのために歴史を生産諸力の発展的展開とみなす唯物論的歴史観がある。人間の現実的活動の社会的あり方を生産諸力の発展と生産関係の変化とみなし、そこに歴史的法則性が見出せるから、この生産力と生産関係に着目すれば、科学としての社会主義を想定できるというのだ。

 この点について、哲学者、廣松渉は「マルクス主義の哲学:その視座と地平」(『マルクスの根本意想は何であったか』所収)のなかで、意識を脳髄の生理・物理的な機能に還元して唯物論的にみるのではなく、生態的な関係態が「誰々に意識されている」というかたちで言語を通じて現実に現われるものこそ意識であり、それは人間の存在そのものであり、そこに法則性を見出そうとしたのである、と説明している。

「情念」から「利益」へ

 だが、こうした見方はそう簡単に生まれたわけではない。そもそも、近代化の前の段階で、価値観の「情念」(passion)から「利益」(interests)への移行という現象があり、それが「徳」から「作法」への移行や「感情」から「意識」への移行と関連性をもっていたことに気づかなければならない。

 アルバート・ハーシュマン著『情念の政治経済学』によれば、中世ヨーロッパでは、聖アウグスティヌスによって提示された、権力欲、性欲、金銭欲を非難する見方が支配的で、いわば、驕慢、嫉妬、貪欲ないし野心、権力欲、強欲などの情念を「悪」であり、抑制すべきであるとみなしていた。

 大雑把に言えば、情念を悪とみなす社会では、情念の一つを形成する金銭欲を軽蔑するため、カネ儲けを悪とみなし、カネ儲けに専心する者を蔑視するような視線が支配的となる。それが商業を軽視し、商人を疎んじることにつながる。利子の徴収(徴利)をめぐる宗教的な問題もあって、より一層、守銭奴が唾棄されるようになる。

 これは、儒教において、商業が蔑まれたのとよく似ている。だが、利益という概念が創出されたことで、情念を利益に対立させる一方で、少なくとも金銭的な利益を求めることへの寛容な視線が

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