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五輪中止の選択肢は存在せず~「国民の安全第一」という日本の規範が変わった

民意に耳を傾けない菅政権。期待を裏切られた我々は何を選べばいいのか

西田 亮介 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授

   オーストラリアから、東京五輪の競技の中でもっとも早く開催されるものの一つ、女子ソフトボールの選手団が事前合宿のために来日した(6月1日)。開会式まで1カ月あまり、五輪の準備は粛々と進む。東京五輪組織委員会の「競技スケジュール」も今のところ、特段の変化もなく掲載され続けている。

 ソフトボールと並んでもっとも早い7月21日から競技が始まる予定のサッカーは、北海道・札幌、宮城、東京で実施される。北海道と東京は、5月28日に延長された緊急事態宣言の対象地域。そして、開会式は、7月23日の20~23時に東京・信濃町のオリンピックスタジアムで行われる予定なのだが……。

来日したソフトボール女子豪州選手団東京五輪に出場予定のソフトボール女子豪州選手団=2021年6月1日午前10時30分、千葉県成田市、福留庸友撮影

五輪開催に懐疑的な専門家・世論

 一方で、新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長をはじめとする専門家はこの間、五輪開催に対して懐疑的な態度をいっそう強めている。感染の収束が見えないなかで、また現実にワクチン接種が進まないなかでリスクを取って開催すべきなのか、というわけだ。

 世論調査でも、東京五輪の今夏開催に対する否定的な見解が強い。やはり5月10日に更新されたNHKの世論調査では東京五輪の開催形態を聞いた項目で「中止」が49%を占め、何らかの形での開催を求める項目の合計を上回っている。

 さらに年代別で見ても、与党支持層だけに限定しても「中止する」がもっとも多い回答になっている。4月のNHKの調査では「中止」は32%だった。開催時期が近づくなかで、人々は東京五輪への懸念を強めている様子がうかがえる。

 なおテレビ朝日の5月の世論調査でも「中止」が49%で、「さらに延期」をあわせれば82%となり、7月開催の15%を大きく上回っている。

東京五輪・パラリンピックの中止を求め国立競技場の周りをデモ行進する人たち=2021年5月9日午後7時15分、東京都新宿区、伊藤進之介撮影

民意次第に思えた東京五輪の行方だったが……

2020年1月~6月ごろまでの経緯を整理、分析した
『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』
 筆者は『コロナ危機の社会学』(2020年、朝日新聞出版)や「不安を誘発する SNS 環境 民意に『耳を傾けすぎる』政治でいいのか」(『中央公論』2020年8月)などで、「耳を傾け過ぎる政治(政府)」について論じてきた。これは、自らの主張や信条を棚上げし、ただネットやSNS、ワイドショーなど目に付きやすい「民意」に媚び、発言し、政策決定に一貫性のない、政治や行政の振る舞いのことである。コロナ禍においても、それがたびたび観察されたというのが筆者の見立てだった。

 最長政権となった安倍晋三前政権が、メディア戦略に注力し、インターネット選挙運動を広く解禁するなど、メディア環境の変化とそれを適応した政治行動をしたことは記憶に新しい。その政権の継承を掲げた菅政権だけに、東京五輪の開催/中止も「民意」の行方次第かに思えたものだ。

 専門家も世論調査も、今夏の東京五輪の開催に強い懸念を示したが、菅政権は違った。5月28日に緊急事態宣言延長を表明した総理記者会見では、冒頭の談話で自ら東京五輪について触れることはなかった。総理が五輪に言及するのは記者から関連の質問が出てからだった。少し長いが、やり取りをそのまま見てみよう。

菅首相会見会見で記者の質問に答える菅義偉首相。右奥は政府分科会の尾身茂会長=2021年5月28日午後8時30分、首相官邸、上田幸一撮影
(記者)
 東京新聞、中日新聞の清水です。
 東京五輪・パラリンピックについて伺います。IOCのコーツ調整委員長は、先週、緊急事態宣言下でも五輪を開催できると明言されました。開催国の総理大臣として、緊急事態宣言下でも五輪を開催できるとお考えでしょうか。

 また、各種世論調査では、この夏の五輪開催に反対の声が多数です。国民の命を守ることに責任を持っているのはIOCではなく日本政府ですので、国民が納得できるよう、感染状況がどうなれば開催し、どうなれば開催しないか、具体的な基準を明示すべきではないでしょうか。お考えを伺います。

 なお、記者会見での総理の御回答が正面からお答えいただけなかったり、曖昧なものが多くて、見ている国民の方が不満を抱いていたりしています。是非明確にお答えいただけるようお願い申し上げます。

開催以外の選択肢は端から存在しない

(菅総理)
 まず、国民の命と健康を守るのは、これは当然、政府の責務です。

 オリンピックについて様々な声があることは承知しています。そうした声に耳を傾けながら、指摘をしっかり受け止めて取り組んでいるところです。まず当面は、緊急事態宣言を解除できるようにしたいと思います。そうした中で、選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じて安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく、これがまずは前提です。

 そうした中にあって、具体的な対策を3点申し上げます。第1に、入国する大会関係者の絞り込みです。当初は18万人が来日する予定でしたけれども、オリンピックが5万9000人、パラリンピックが1万9000人まで絞っております。更に削減を要請いたします。

 次に、ワクチンの接種です。入国する選手や大会関係者の多くはワクチン接種が行われ、ワクチンが広く行き渡るよう日本政府の調整の結果として、ファイザーからIOCを通じて、日本人を始め各選手団にはワクチンが無償で提供されることになっています。

築地の大規模接種、始まる築地市場跡地に設置された大規模接種会場で、警視庁や東京消防庁職員へのワクチン接種が始まった=2021年6月8日午前9時37分、東京・築地、瀬戸口翼撮影

 そして、日本国民との接触、これの防止です。海外の報道陣を含めて、大会関係者は組織委員会が管理するホテルに宿泊先を集約し、事前に登録された外出先に限定し、移動する手段は専用のバスやハイヤーに限定します。また、入国前に2回、入国時に加え、入国後3日目までは全員毎日検査し、その後も定期的に検査いたします。こうした関係者と一般国民が交わることがないように、完全に動きを分けます。外出して観光したり街中へ出入りすることはない。こうした対策により、テスト大会も国内で4回開催いたしました。大会期間中、悪質な違反者については国外退去を求めたいと思っています。

 この3つの対策について、組織委員会、東京都、政府と、水際対策を始め国民の安全を守る立場から、しっかり協力して進めていきたい、このように考えています。

(記者)
 緊急事態宣言下でもできるとお考えでしょうか。

(菅総理)
 テスト大会も国内で4回開催しています。今、申し上げましたように、こうしたことに配慮しながら準備を進めております。

(首相官邸「令和3年5月28日 新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見」より引用。強調は引用者による)

(参照:首相官邸「令和3年5月28日 新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見」

 東京五輪は開催する。それ以外の選択肢を、菅総理の発言から見出すことはできないのである。国民の声に耳を傾けるつもりもなければ、開催理由を説明する気もない。開催の「可否」は検討すべき事項ではないのだ。

 もちろん直接には開催都市の問題であって国の問題ではないはずなのだが、誘致には当時の安倍晋三総理も楽しそうに参加していた。五輪は国家的事業であり、開催こそが政治の世界の既定路線であって、結局のところそれ以外の選択肢は端から存在しないのだ。

 そうとでも考えなければ、これほどチグハグなやり取りにはならないだろう。なにせ緊急事態宣言下での開催の可否と、判断の基準を具体的かつ明確に述べるようにと念押しされているにもかかわらず、「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じて安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていく」と答えている。

「国民の安全第一」は安直な期待だったのか?

 開催できる条件にも、できない条件にも言及しておらず、「開催一択」である。更問(追加の質問)が禁止されているにもかかわらず、じれったさに耐えかねたのであろう質問者が緊急事態宣言下でも開催できるのかを問うているが、「テスト大会も国内で4回開催」した(……ので、当然本大会も開催できる)という返答のみがなされている。

東京オリンピック・パラリンピックの準備のため中央広場を立ち入り禁止にするため、柵を設置する作業員ら=2021年6月1日午前10時16分、東京都渋谷区の代々木公園、藤原伸雄撮影

 政権は開催/中止について、検討もせず、説明もせず、世論に耳を傾けるポーズすら見せなかったのだ。桁違いの予算を不透明に投じながら、これである。

 安倍政権と菅政権において、行政府の長である総理が、正当な国民の代表が集う立法の場である国会や、国民の知る権利を国民に代わって行使している記者会見の場で、まともな答弁をしないことにも、その結果、総理や政府の意図がさっぱりわからず、これから行おうとする政策の内容が理解困難であるということにも、我々は慣れすぎてしまった感すらある。

 思えば、コロナ禍でもそうだった。緊急事態宣言はなぜ、いつ発出されるのか、多くの専門家がリスクを述べているのに、なぜ前倒しで解除するのかは、わからずじまいだった。そして、専門家の予想通り、感染の新たな波がたびたび押し寄せた。

 我々は、まともに、そして真面目なものとして自国の政府を捉え過ぎていたのかもしれない。

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