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民主主義の脅威という話

ハーバーマス、アガンベン、フーコーから読み解く

塩原俊彦 高知大学准教授

 民主主義の脅威については、「ニッポン不全【12】 日本の民主主義も「中年危機」」で、若干論じたことがある。そのなかで、ケンブリッジ大学のデイヴィッド・ラシマン著『民主主義の壊れ方』(白水社, 2020年)を紹介し、彼が「もう弱ってしまっている民主主義が「クーデター」、「大惨事」、「テクノロジー」によって乗っ取られてしまう可能性について論じている」と書いておいた。

 たぶん、この三つの論点に加えて、いま注目されているのは、国家と専門家との関係だろう。専門家の発言を利用して権力行使に結びつける政治指導者(国家権力)のあり方と、国家権力の上に立って専門家が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の防疫対策を推進するあり方とのせめぎ合いのなかで、国家と専門家をめぐる権力関係が問われているように思える。

 有体に言えば、これまでさんざん専門家を利用してきた菅義偉政権だが、緊急事態宣言下であっても五輪を中止しようとしない政府にはっきりと注文をつけるようになった政府の新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長との間で、五輪開催をめぐる確執が生まれており、その行方が注目されている。

 一方の菅は、選挙で民主的に選ばれて国会で首相に選任されたとはいえ、数年に一度の間接選挙で選ばれただけであり、国民の生命を守るために五輪などやっている場合ではないという大多数の今現在の国民の声を代弁しているとは言えない。他方の尾身は、民主主義とはまったく無関係に選ばれただけの専門家にすぎない(最近になって、あきらめの境地からか、五輪開催に肯定的な人が増えているようにもみえる)。いずれにしても、民主主義とはかけ離れたところで、国民の命がもてあそばれているかのように感じられる。

 専門家をめぐっては、竹中平蔵元総務大臣は、6月20日までの緊急事態宣言を再延長するかどうかに関して、「分科会がまた変なことを言う可能性があって。(分科会が)社会的になんか『専門家』と思われているから」と専門性を疑うかのような発言をした」という(毎日新聞電子版を参照)。竹中は自分を経済学の専門家と思っているかもしれないが、その昔、筆者が一橋大学大学院に在籍していたころ、一橋大学に博士号取得論文を提出しながら却下された人物こそ竹中であり、専門家と称される人々がいかにいい加減かは自分自身が一番よく知っているはずなのだ。

 ここでは、もっと「高尚なレベル?」に立って、国家と専門家をめぐる権力関係について、哲学者のユルゲン・ハーバーマス、ジョルジョ・アガンベン、ミッシェル・フーコーなどの知見を参考にしながら考えてみたい。

竹中平蔵氏(左)と菅義偉首相=2020年11月23日、東京都千代田区

ハーバーマスの怒り

 筆者が忘れられないのは、ハーバーマスが2011年に急遽、『欧州の憲法について』(Zur Verfassung Europas)というパンフレットを刊行したことである。彼は、それ以前の段階で、ヨーロッパの統治機関のあり方に疑問を呈していた。その著書、『ああ、ヨーロッパ』(岩波書店, 2010年)のなかで、「EU機構改革条約は、政治エリートと市民との間に存在する格差をむしろ固定してしまい、ヨーロッパの将来のありようについての政治的決定への道を開くものではまったくない。それゆえに未解決の二つの問題(民主主義の欠如とEUの最終目標をめぐる未解決の問い[引用者注])は、これまでに達成された統合の標準を暗黙のうちに元に戻してしまう方向に進ませるか、あるいは痛みをともなう別の道を取るべきとの自覚を強めさせるかであろう」と指摘していた。

 前記の『欧州の憲法について』では、ヨーロッパの民主主義の本質がどのように市場の危機や狂騒という圧力のもとで変貌してしまったのかが論述されている。彼が危惧していたのは、権力が人々の手からすり抜け、欧州理事会のような民主主義上、疑問の残る正統性しかない機関に移ってしまったという事実についてである。ギリシャ国債をデフォルトに追い込めば、ギリシャの国家財政が破綻するのはもちろん、ギリシャ国債を保有してきた銀行も連鎖倒産しかねない事態に陥りかねないから、これを回避するために支援措置が必要であるとして、その政策の是非を、欧州議会をはじめとするさまざまな場で議論する余地さえあたえないままに勝手に先行的に決め、事後的な承認を得るやり方に民主主義の喪失懸念をいだいているのである。もっと端的に言えば、市場によって国家がさまざまな政策の見直しを迫られるという構図は民主主義の崩壊を意味しているのではないかと警鐘をならしたのだ。

 ハーバーマスの危惧は、市場に参加する一部の投資家や金融専門家だけが解決方法を決め、それを事後的に認める手続きが民主主義を愚弄するものであるという点にある。

 善悪に関係なくカネ儲けのためにだけ儲かりそうな行動をとる投資家やそれを支援する専門家が決める市場動向によって、ヨーロッパ全体の政治経済の仕組みを根本的に揺さぶるような変革を迫られ、それに唯々諾々と従わざるをえないという過程には、ユーロ圏やEU加盟の国々に住む人々の善悪や正義にかかわる意見はまったく反映されていない。ただ、危機以前に各国の選挙で選ばれ、首脳となった人々が中心となって形成されている欧州理事会のような機関が、緊急事態を名目にして勝手な対応策を決め、事後的に各国において承認してもらうといったことを平然と行っている。これが民主主義なのだろうかと、ハーバーマスは怒ったのである。政治によってコントロールされた市場からなる「埋め込まれた資本主義」(embedded capitalism)ではなく、市場が勝手に決めた方向に沿う形でしか政策を決められない事態に陥ってしまっていることへの憂いを表明しているのだ。

 しかも、2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻により、市場の論理が正義とかけ離れたところにあることが示されるという事件もあった。その背後には、1997年のノーベル経済学を受賞したロバート・マートンとマイロン・ショールズの金融派生商品(ディリバティブ)の価格決定理論があった。専門家と投資家によって、連鎖破綻が生じ、何の罪もない多くの人々が職を失い、辛酸をなめたのにもかかわらず、「悪」にかかわった当事者は救済された。

 こうした動きを見越して、経済学者のロバート・ライシュは2007年に刊行した著書“Supercapitalism”のなかで、大企業が競争力をつけ、グローバルな展開を遂げ、より革新的になるにつれて、「超資本主義」(supercapitalism)と呼ばれる段階に至り、そこでは民主主義が弱まり名ばかりのものになっていると指摘している。この本の日本語訳は『暴走した資本主義』なのだが、まさに資本主義が暴走し、民主主義を轢き殺さんとしているところまで状況は悪化しているようにみえる。

ユルゲン・ハーバーマス=2004年11月16日

ウイルスの脅威による「例外状態」の強化

 パンデミック下で話題になったのは、イタリアの著名な哲学者、アガンベンの主張とそれへの批判であろう。彼は2020年2月、彼自身の出版社クオドリべト(Quodlibet)のウェブサイトを使って、イタリア政府が検疫や閉鎖によって導入している「テクノメディカル専制主義」を批判し始めたことが知られている(詳しくは『現代思想5 緊急特集 感染/パンデミック』に収載された高桑和巳訳のほか、大澤真幸×國分功一郎『コロナ時代の哲学』を参照)。その内容やその後の経緯などを考察した「ジョルジョ・アガンベンは検疫や閉鎖の『テクノメディカル専制主義』を批判している」という記事や同年7月に発行したアガンベンの投稿集増補版(Where Are We Now? The Epidemic as Politics, Rowman & Littlefield)などを参考に、いったいアガンベンが何を問題視したのかについてみてみたい。

 アガンベンの最初の論考は2021年2月に公表されたもので、その主張はそのタイトル、「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態」によく表されている。彼は、「想定される疫病」(COVID-19)は、例外的な状態、非自由主義的な抑圧のアリバイに過ぎないと指摘している。「主権」が「例外状態」を布告する口実は、かつてはテロの脅威であったが、今度はウイルスの脅威を言い訳にしてその主権を強化・拡大しようとしているというのだ。

 これを専門家との関係で別言すれば、アガンベンは、戦争においてみられた技術革新である

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