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五輪開催の是非は、住民投票で決すべし!(下)

デンバー、ミュンヘン、ハンブルク……幾つもの都市が中止・撤退を選択した

今井 一 ジャーナリスト・[国民投票/住民投票]情報室事務局長

 この論考の「」では、東京オリ・パラの開催もしくは中止の判断・決定に開催都市の主権者・住民が関与できないのは市民自治を損なっていると主張し、住民投票を活用すべきだと論じた。

 「下」では、オリンピック開催の是非を住民投票にかけた諸外国の都市の事例を具体的に紹介したあと、日本がそこから学び倣うべきことを論じたい。

「われわれは立候補という過ちを犯した」

 1963年、コロラド州知事のジョン・ラブは、1976年の冬季五輪の招致レースに参加したい旨を表明し、翌年、州の五輪委員会を創設した。そして、1967年には「1976冬季五輪・デンバー組織委員会」が設立され、デンバー市(人口約50万人)は、米国で立候補できる1枠をめぐって、ニューヨーク州レイクプラシッド、ユタ州ソルトレイクシティ、ワシントン州シアトルなど他の都市と激しく争った。

 米国内のいくつもの都市が立候補したのにはわけがある。開催年の1976年はアメリカ合衆国建国200周年にあたり、コロラドにとっては州の誕生からちょうど100周年にあたっていた。結局、米国オリンピック委員会は、コロラド州デンバー市を「1976年冬季五輪」の正式候補として選んだ。

 1968年には「デンバー冬季五輪」の公式シンボルマークがデザインされ、デンバー市は米国オリンピック委員会の全面的な支援を受けて、世界の招致レースに打って出た。ライバルはスイスのシオン、カナダのバンクーバーなど強敵ぞろいだった。

 そして1970年5月、国際オリンピック委員会(IOC)は、デンバーを「1976冬季五輪」の開催地とすることを決めた。このとき、デンバー市の人たちは「宝くじに当たったみたい」と大喜びだったが、まもなく「環境破壊」と「財政圧迫」を理由に、政治家のみならず市民の中からも開催反対の声が強まり始めた。

 そのとき、世論形成に影響を与えたのが、「1972冬季五輪」の開催を控えていた札幌だった。コロラドの開催反対派グルーブは、札幌市がジャンプ台やスケート場など競技場の施設整備に80億円もの費用(税)を投入した事実を喧伝し、デンバー市民をはじめとするコロラド州の人々に開催を返上すべきだと訴えた。

Protect Our Mountain Environment(POME)などの反対派が対抗して作った バンパーステッカー=コロラド州立歴史博物館(Colorado History )蔵Protect Our Mountain Environment(POME)などの反対派が対抗して作った バンパーステッカー=コロラド州立歴史博物館(Colorado History )蔵

 その後、デンバーでも大会を運営するためのインフラ整備などに多額の金が使われ、さらに資金が追加投入される可能性が高まると「開催反対」の声が一気に増えた。そしてついには、州の下院議員らが「コロラド冬季五輪の資金提供と税に関する改正案」を提案し、州憲法の規定により住民投票が実施されることになった。

 これは、冬季五輪のために特別の税金を徴収して資金を充当・貸与することを禁止するための法改正で、その是非を問う住民投票はデンバーを含むコロラド州全体で(大統領選挙と同日の)1972年11月7日に実施された。

 投票率は7割を超し、法改正賛成(つまり冬季五輪開催反対)が514,228票、法改正反対(開催賛成)が350,964票という結果になった。

 この結果を受けてデンバーの五輪組織委員会は冬季五輪の開催を返上することをIOCに告げ、「われわれは五輪に立候補するという過ちを犯してしまった。米国および世界の人々には申し訳ないが、76年の冬季五輪は他の都市で開催してほしい」と詫びた。

 IOCは緊急協議の末、翌年2月にオーストリアのインスブルック市を開催地とすることを決定した。この街は1964年に冬季五輪開催した実績もあり、既存の施設が使用できるからで、1976年冬季五輪はインスブルックで開催された。

投票2週間前の「事件」が潮目に

 今や「ぼったくり男爵」という異名を持つトーマス・バッハ(IOC会長)の母国ドイツでは、ミュンヘンが「2022年冬季五輪」招致レースへの参加を表明していたにもかかわらず、2013年11月に実施された住民投票の反対多数という結果に従い立候補を断念した。

 その翌年、共に1市単独で1つの連邦州を構成する大都市、ベルリン(当時の人口は約347万人)及びハンブルク(同176万人)は、東京五輪の次の「2024年夏季五輪」の開催地に立候補する意思があると表明した。これを受けて、ドイツオリンピック委員会は、2015年3月の総会でハンブルクを候補地とすることを正式に決定し、バリやローマ、ボストンなど強豪都市が居並ぶ招致レースに参加することになった。

 ベルリンではなくハンブルクが選ばれた決め手は、地元市民の熱意の差で、ハンブルクでは、自治体、企業のみならず多くの市民グループがさまざまな誘致イベントを開催して誘致を訴え、正式決定前の世論調査でも、立候補を支持する率が64%に達していた(ベルリンは55%)。ただし、ハンブルク市民の「意思の最終確認」をすべく、2015年11月29日に住民投票が実施されることになった。

 この住民投票は、大会の主会場となるハンブルクのほかにヨット競技を共催する港町キール(人口25万人)でも行われたが、ハンブルクでは投票日が決まったあとの数か月間、賛否両派が激しいキャンペーン合戦を繰り広げた。

開催反対を訴えるハンブルクの市民グループ Nolympia-Hamburg  がSNSで拡散した写真。街中に張り出されているポスターで、「五輪より住宅を」といった書き込みも
開催反対を訴えるハンブルクの市民グループ Nolympia-Hamburg がSNSで拡散した写真。街中に張り出されているポスターで、「五輪より住宅を」といった書き込みも

 立候補賛成派はハンブルク市(行政)をはじめ、ドイツを代表する世界的な企業や陸上、水泳、サッカーなど数々の競技団体で、すでに現役を退いた人も含め著名なスポーツ選手がメディアを通じてオリンピックの魅力を存分に語った。そして、彼らは一様にハンブルクでの開催がドイツの将来を担う若者たちに希望を与え、彼らの活力を促すと訴えた。

 一方、環境保護グループや左翼、社民系の議員らが主体の反対派は、競技場は大会終了後に維持費がかかるし「廃墟」になったりするというのに、12億ユーロ(約1600億円)という莫大な資金を投じて新たな競技場を作ったり、インフラ整備をする意味はないと主張した。

 こうした賛否を訴える運動は、11月初旬までは賛成派がリードしていた。だが、投票日の2週間前にISILの戦闘員(イスラム過激派)と見られる者たちが起こした「パリ同時多発テロ事件」がハンブルク市民の気持ちを揺さぶる。死者130名、負傷者300名を超す犠牲者を出したこの事件は、ドイツの高齢者に1972年のミュンヘン五輪でのパレスチナ過激派による「選手村占拠事件」(人質11人、警官1人が殺害される)を想起させた。人々が注目しているところで事件を起こしたいテロリストにとってオリンピックは格好の狙い目で、五輪開催がテロリストを呼び込むことになるのではないかという危惧を抱く人がにわかに増えた。

 2015年11月29日、さまざまな検討材料を吟味したうえで、ハンブルク市民は投票に臨んだ。

ハンブルク市での住民投票で使われた投票用紙の見本ハンブルク市での住民投票で使われた投票用紙の見本

「私は、ドイツ五輪スポーツ連盟およびハンブルク自由都市が、2024年のオリンピック・パラリンピック開催を申請することに賛成です」
この申請に同意しますか?
[はい][いいえ]

 16歳以上のハンブルクに居住する市民1,300,418人が投票権を有し、投票率は50.2%。[はい]が

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