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地政学から中東情勢を読み解く

米国の政権交代が流動化を促した

塩原俊彦 高知大学准教授

 2021年4月18日付のフィナンシャル・タイムズ電子版は、厳しく対立してきたイランとサウジアラビアの情報・安全保障担当の高官が4月9日にイラクのバクダードで協議したと伝えた。別の情報では、「双方は、中東の安全保障問題について議論し、近い将来、拡大した形式で一連の会議を開催することにも合意した」という(エクスペルト[2021年No. 22]を参照)。今回の協議は、今後の中東情勢を予測するうえで画期的な出来事であると考えられる。そこで、地政学の立場から中東情勢のいまを分析し、さらに今後の展開についても解説してみたい。

イランとサウジアラビアの関係の変遷

拡大Claudio Divizia / Shutterstock.com

 最初に、これまでのイランとサウジアラビアの関係について簡単に説明したい。そもそも宗教上の対立があることを確認しておきたい。イスラム教のコミュニティ(ウンマ)は、その誕生から1世紀の時点ですでに、スンニ派、シーア派、カリジ派(「裁きは神のみに属する」として、指導者を血統ではなく宗教的な功績で選ぶことを主張)の三つの方向に分かれていた。

 この分裂の最大の理由は、イスラム国家における最高権力者のあり方に対する考え方にあった。スンニ派は、預言者ムハンマドが属していたクレイシュ族の中で最も尊敬されているムスリムに、ウンマの決定によって権力が伝達されると考えている。世界のウンマの約15%を占めるシーア派は、預言者の直系の子孫のみを唯一の法定相続人および精神的後継者として認めている。この分裂の結果、多くの血が流された。

 下表に示したように、両国関係は山あり谷ありの複雑な変遷をただってきた。いわゆる「アラブの春」が中東地域で広がった2011年以降、スンニ派アラブ世界のリーダーであるサウジアラビアと、シーア派のリーダーであるイランとの対立が目立つようになる。中東地域でのシーア派の権益拡大がこうした対立の背景にあった。

イランとサウジアラビアの関係の変遷

●1932~1945年
 アラブの反乱に巻き込まれずに済んだイブン・サウド(アブドゥルアジズ・アル・サウド)は、1920年代にナジュドやヒジャーズを支配下に置き、それらを統合して1932年にサウジアラビア王国を建国した。イランでは、1925年、レザー=ハーン(シャー=皇帝になってレザー=シャーと称する)がイランの王朝(パフレヴィー、パフラヴィー、パーレビなどと表記)を開く。パフレヴィー朝はイスラム以前のイラン固有文化の復興に力を入れ、1935年に国号を「イラン」に改称(これはゾロアスター教の聖典『アヴェスター』からとった言葉)した。ドイツに接近したレザー=シャーは1941年、英国、ソ連の圧力で退位させられ、子のパフレヴィー2世に。イランとサウジアラビアの関係は、第二次世界大戦終了までは、「静かな中立」関係を維持

●1945~1979年
 パフレヴィー2世の時代には、イランとサウジアラビアとの関係は安定。両者は自らをパートナーと位置づけ、確立された地域安全保障のシステムの中で継続的な対話を続けた

●1979~1991年
 イランではじまったイスラム革命の結果、急進的なシーア派聖職者の地位が強化されると、相互の位置づけが大きく変わった。イランの新体制にとって、サウジアラビアは「旧体制」と「ビッグサタン」(イランでは米国がそう呼ばれていた)の同盟国のひとつであり、国内外の反革命グループの活動に資金を提供する可能性のある源とされた。一方、サウジアラビアはテヘランを潜在的な脅威の源とみなすようになる。同国には、石油を産出する海岸線をはじめ、多くのシーア派コミュニティが存在する。イランのイスラム革命は、王国のスンニ派人口に比べてはるかに少ない権利しかないサウジアラビアのシーア派に空前の熱狂をもたらした。サウジアラビアの主要都市では、シーア派によるデモが数多く行われた。デモ参加者は、米国への差別政策や石油輸出の中止を求め、イスラム革命の思想を中東の他の国にも広めようと訴えた。革命の勝利から1年の間に、サウジアラビアではシーア派を中心とした抗議活動が60回ほど繰り返された

 1987年、ハッジ(巡礼)での暴動。イラン人巡礼者たちによるデモがメッカで発生し、警察との衝突で402人が死亡。そのほとんどがイラン人だった(さまざまな推定によれば、350人から375人)。サウジアラビア当局は、イランが「状況を揺さぶり」、「否定的な前例を作ろうとしている」と非難し、イランはサウジアラビアが同様の措置をとったと非難した

 1988年3月、OIC(イスラム会議機構)加盟国と共同で、サウジアラビアはイランからの年間巡礼者数を5万5,000人と規定したのに対し、テヘランは15万人以上の割り当てを主張。この対立はやがて相互攻撃にまで発展し、1カ月も経たないうちに両国は正式に国交を断絶。イラン当局は「神殿は背教者の権力下にある」としてハッジのボイコットを呼びかけた。しかし、この紛争はすぐに消滅。1991年、イランは「妥協枠」(年間10万5000人)で妥協し、二国間関係は回復

●1991~2011年
 イラン・サウジアラビア関係が「リセット」された時期。サウジアラビアに住むシーア派の人々の状況が改善。1993年には、国の統治システムにおける重要な立法機関であるマジリス・アル・シュラ(Majlis al-Shura)のメンバーに3人のシーア派が就任。2005年には少数派のシーア派にとって重要な日(特にアシュラの日)に行われる儀式の制限が正式に解除され、エル・カティフ市とエル・アサーア市の市議会選では、シーア派コミュニティのメンバーが久しぶりに議席を獲得

●2011年以降
 「アラブの春」が始まると、状況は再び大きく変わった。サウジアラビアの首都やその他の主要都市でシーア派の抗議活動が再開された。2012年、サウジアラビアは、イランの精神的指導者に気に入られていると噂されていたシーア派の説教師、シェイク・ニムル・アル・ニムルを拘束。アル・ニムルと彼の支持者46人は、2016年1月に処刑された。イランの精神的指導者であるハメネイ師は、サウジアラビア当局の行動を公式に非難し、不満を持った群衆がテヘランやマシュハドのサウジアラビア外交官事務所を襲撃した。サウジの外交官に負傷者は出なかったが、リヤドはこの事件をもってイランとの関係を永久に断つことができると考えた

 2015年にサウジアラビアのアブドゥラ・ビン・アブドゥル・アジズ・アル・サウード国王が亡くなると、イランの神学者たちは、サウジアラビアの権力者たちを「ダジャール(Dajjal, 反キリスト)のしもべ」と呼び、世界的なイスラム教徒の反乱とのつながりをほのめかすようになる

 2021年、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子は、久しぶりに伝統的な決まり文句から離れ、イランを自国の「重要なパートナー」と称した

(出所)https://expert.ru/expert/2021/22/iran-i-saudovskaya-araviya-zhdat-li-soyuza-davnikh-vragov/など。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

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