黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
失敗だらけの役人人生⑳ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
この連載も終盤となりました。自分が役人生活を通じて身につけた技や仕事のやり方、特に運用部門や官房での経験については語り尽くした感はあるのですが、他方で政策部門での業務実感を伝えきれていないのではないかという感触が残りました。この点については、何人かの読者の方々からも同様のご指摘を頂戴したところです。
このため、政策部門で勤務していた時期に何を考えながら仕事をしていたのかについても書こうと考えました。特に、東西冷戦の終結や9・11同時多発テロなど歴史の節目とも言えるような大きな出来事については比較的鮮明な印象が残っていますので、それらを中心に数回を費やしたいと思います。
こちらは自分の失敗というよりは仕事の感想、雑感のようなものを綴ることになるので、教訓としてお伝え出来るような明確なものはありませんが、冷戦末期からポスト冷戦期における防衛政策の現場の雰囲気だけでも伝えられれば幸いです。
私は1958年(昭和33年)の生まれなので、物心ついてからずっと東西冷戦構造の下で育ってきました。学校で使う世界地図の北半球には巨大な赤いソビエト連邦が鎮座していたし、ヨーロッパには東西二つのドイツが載っていました。それが当然だと思っていたし、そうした構造が変わるなどということは想像もしませんでしたが、1989年(平成元年)にベルリンの壁が崩壊し、第二次大戦後44年間続いた東西冷戦は確かに終わりを告げました。
私が役所へ入る二年前の1979年(昭和54年)12月、ソ連は突如アフガニスタンに侵攻しました。現地の親ソ政権を反政府勢力の攻勢から守るための武力介入で、これを機に東西の緊張緩和(デタント)は終わりを告げ、厳しい対立基調へと変化しました。その後、ソ連はアフガンの泥沼にはまる一方、米国のレーガン政権は1983年(昭和58年)に高度な技術力に基づく戦略防衛構想(SDI)を発表してソ連に圧力をかけ、米ソ対立は「新冷戦」と呼ばれるほど先鋭化しました。
東西の軍拡競争がソ連経済を圧迫する中、1985年(昭和60年)にゴルバチョフ書記長が就任し、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)などと呼ばれる民主化に向けた一連の動きが開始され、これが最終的にベルリンの壁の崩壊につながりました。冷戦の終結は、ソ連のアフガン侵攻開始からわずか10年後、私が1981年(昭和56年)に防衛庁に入庁して8年しか経っていない時期の出来事でした。私の役人人生の「最初の8年間」が、東西冷戦の「最後の8年間」だった訳です。
1981年(昭和56年)の入庁と同時に防衛局計画官室に配属され、防衛力整備5カ年計画である中期業務見積もり(56中業)の策定作業に参加したことは以前に触れました。この56中業が目指していたのは、その5年前に策定された防衛計画の大綱(51大綱)が示す防衛力の目標水準を達成することでした。
入庁したての一年生の仕事は先輩部員が作る資料の清書(まだ手書きでした!)やコピー取りが主でしたが、防衛庁の初任研修で受けた51大綱に関する講義の印象が鮮烈で興味をひかれたこともあり、ちょっとした空き時間を見つけては51大綱について勉強していました。当時はネットで手際よく調べたりすることは出来なかったので、51大綱を体系的に説明した昭和52年版防衛白書や策定に携わった先輩が雑誌「国防」に寄稿した論文などを探して読み漁った記憶があります。
51大綱の詳細は次回に触れますが、大国間の均衡関係が周辺諸国の軍事的意図に影響を与えているというメカニズムに着目して、周辺諸国との軍拡競争を避けながら容易に現状変更を許さないような防衛力の構築を目指すこととし、そのために必要な構想や能力、組織・体制などを包括的に示したものでした。51大綱とその基礎になった基盤的防衛力構想の論理は、入庁したての私の目には非の打ちどころのない精緻なものと映りました。
その頃、東西対立が再び厳しさを増していたことから、防衛庁内外には51大綱の見直しと防衛費の大幅増額を主張する声もありました。しかし私自身は、防衛費をアプリオリにGNP1%以下に抑えようとする考え方には疑問を感じていたものの、米ソ中三国間の牽制と均衡という基本的な関係に変化がない以上、51大綱を修正する理由はないと考えていました。
一年生の秋頃から56中業の策定作業が本格化すると、基盤的防衛力構想や51大綱の議論から離れて、ひたすらミクロの議論に集中することになりました。陸自担当部員の補佐だった私は、陸幕から提案された新たな師団編制の細部を詰める作業に没頭しました。師団を構成する約1万人の要員一人一人の必要性や、拳銃・小銃から火砲や戦車に至るまでの装備品の所要数などを確認するため陸幕防衛部に入り浸りました。
仕事が忙しくなると役所で夜を明かしたり、独身寮の同期生の部屋に泊めてもらったりすることが多くなり、作業が佳境に差し掛かった頃には「お前、昨夜『経費が収まらない』とかうなされてたぞ」などと同期生にからかわれたりしていました。
計画策定作業は翌年度にずれ込み、3月に予定していた結婚式は辛うじて挙げたものの新婚旅行はお預けとなりました。最終的に56中業は1982年(昭和57年)7月に完成し、8月にようやく家内とともに北海道へ旅することが出来ましたが、初めて経験した1年半にわたる計画策定作業は戦略的な発想とは無縁の世界で、人員や装備品の必要性について各幕や大蔵省と調整することだけを考えているうちに終わりました。
最初に携わった仕事は強く印象に残り、多かれ少なかれ職業人としてのその後の人生に影響を与えます。私の場合も、「クレムリン」(旧ソ連やロシアの指導者の執務室があるモスクワの宮殿=編集部注)の異名をとった厳しい職場で修羅場に放り込まれ板挟みの苦労などを味わった経験は、その後の役人人生の原点になりました。ただ、そこで学んだのは、人員や装備品の積み上げの理屈といった「防衛力整備の技法」が主でした。
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