藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト
元朝日新聞記者。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
精神的支援にとどまらず香港の言論人の困難な生活を支える確かな応援を
香港の日刊紙「蘋果日報」(アップル・デイリー)が6月24日付けの紙面を最後に輪転機を止めた。中国共産党に盾突く言動を取り締まる香港国家安全維持法の強圧に抗しきれなかった。
民主主義擁護を鮮明にしていた同紙の廃刊を惜しむ声は絶えない。しかし、私たちは声をあげるだけでなく、香港のジャーナリズムの火を絶やさぬよう、地に足のついた確かな道を探さなければならない。
1995年6月の創刊直前、当時オーナーだった黎智英(ジミー・ライ)氏に初めて会って取材した。それから私は豪放にして緻密(ちみつ)な黎氏と、彼が率いる蘋果日報の大胆不敵な紙面を注目し続けてきた。
漢字の読みが難しいためもあって、朝日新聞をはじめ多くの日本メディアは「リンゴ日報」と呼ぶようになった蘋果日報。その題字を発刊前、最初の本社のあった貸工場で見たとき、かじった赤いリンゴにかぶされた白い太字に魅せられた。題字がそれまでの香港紙の古めかしさを一蹴したと思っただけでなく、カラー写真をふんだんに、それも切れ味よく使ったレイアウトにも目を見張った。
黎氏は広東省からの密航や独学の苦労はほとんど語らず、「新聞発行は金もうけだ」「読まれない新聞はただの紙だ」などと経営者として話し続けた。「日本のスポーツ新聞をはじめ世界の新聞を研究した」という黎氏の横の机にいた女性秘書は、笑いながら「レイアウトは産経新聞が参考になった」と率直に話した。産経新聞は日本の大手紙のなかでカラー紙面に最も力を入れていて、論調はともかく、私もすっきりしたレイアウトを評価していた。
創刊時の社員530人のほとんどは、香港の同業他社から移ってきていた。英国統治下、言論の自由があった香港は新聞社が林立し、競争は熾烈(しれつ)だった。それは記者と技術者を鍛えることになり、蘋果日報は「プロの仕事師」を当初から雇うことができた。
黎氏も話していたが、カラー印刷の出来はインクの配合や輪転機の回転速度などが決め手となり、いまも技術者の腕次第だ。蘋果日報の最後の仕事ぶりを伝えたおびただしい画像のなかで、私は印刷具合を検査する作業服を着た社員の姿に、胸が熱くなった。
もちろん、記者をはじめ編集部門の仕事も経験がものをいう。エロ、グロ、ナンセンス、バイオレンスと何でもありの香港メディアで働く同業者は曲者が少なくなかったが、欧米できちんとジャーナリズムや政治を学んだ人も多かった。
蘋果日報の少なからぬ記者もそうだった。私が北京で働いていた時、中国人の知人から記者の素性を尋ねられたことが度々あった。秘かに読んでいるのだった。「敵を知るため」と言っていたが、大陸では見ることができず、そして香港でもなくなりつつあった面白い記事を、本当は楽しんでいるようだった。