藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
特集・戦犯遺骨の米軍秘密文書(上)
日米開戦から80年となるこの夏、戦争責任とナショナリズムについて深く考えさせられる貴重な米公文書に出会った。日本降伏後の1948年12月23日、米軍が日本の戦争指導者としてA級戦犯7人を死刑に処したその日のうちに火葬し、太平洋上空から散骨したという「報告書」。そして、そうした対応を現場に指示した「マッカーサー元帥の命令」による書簡だ。
連合国軍最高司令官として日本の占領にあたっていたマッカーサーが抱いたであろう、勝者に戦犯として裁かれた刑死者が美化されぬようにという切迫感がにじむ。この文書の読み解きと、文書の発見によってA級戦犯の亡骸がどう扱われたかを初めて詳しく知った遺族の思いを、3回にわたり報告する。
筆者が論座で2019年に連載した「ナショナリズム 日本とは何か」の番外編としてお読みいただければ幸いだ。
73年前のこれらの米軍の文書計3通は、秘密指定を解除されて米公文書館に保管されており、戦犯裁判について研究する日本大学の高澤弘明専任講師が2018年に発見していた。筆者は高澤氏から写しの提供を受けた。
散骨の報告書はうち2通で、1通目は死刑執行と同じ日付。散骨を終えたことと、対米開戦時に首相だった東条英機陸軍大将ら処刑された7人の氏名を、1ページで簡潔に報告している。2通目は翌月の1949年1月4日付。処刑から散骨までを、時系列で4ページにわたり説明している。
作成したのは、遺体処理を担当した米陸軍第8軍で現場責任者を務めたルーサー・フライアーソン少佐。降伏した日本に進駐した米第8軍は司令部を横浜に置き、連合国軍総司令部(GHQ)と連携して占領にあたっていた。
もう1通、米極東軍司令部が傘下の第8軍司令官に遺体処理の「作戦」をあらかじめ指示していた書簡がある。「処刑された戦争犯罪人の遺体は火葬し、遺灰を密かに海に捨てるように」と明記。作成は7人が処刑される4カ月前、連合国が戦争指導者を裁いた東京裁判が審理中だった1948年8月13日付で、「マッカーサー元帥の命令による」とある。マッカーサーは当時、極東軍と連合国軍の最高司令官を兼ねていた。7人の遺体の扱いはこの文書に従った、と上記2通の報告書にある。
まず、散骨までの経緯が詳しい2通目の報告書「戦犯7人の処刑と遺体の最終処分に関する詳細説明」を中心に見ていく。
「平和に対する罪」を犯したとされたA級戦犯7人の絞首刑は、1948年12月23日の午前0時過ぎ、米軍が管理する東京の巣鴨プリズン(場所は今の東池袋)で執行。立ち会ったフライアーソン少佐の時系列の報告書はここから始まる。
「私の前で7人の遺体の身元が確認され、指紋が記録され、そのコピーはワシントンに送られた。遺体は木の棺に収められ、トラックに積まれた。横浜への遺体の護送に当たるため、2人の士官と、武装した16人の下士官が選ばれた」
少佐らは車両4台で次のような態勢を組み、午前2時10分に巣鴨プリズンを出発した。
(1)ランドビークル 士官1人と武装した下士官3人
(2)トラック 7人の遺体
(3)トラック 武装した下士官12人
(4)トレイルビークル 士官1人、フライアーソン少佐、武装した下士官1人
「護送車列は午前3時40分、横浜の第108補給・墓地登録小隊の駐屯地に到着し、車両修理棟へ入った。施錠されたこの建物で遺体の最終確認が行われ、7つの棺が許可なく開けられないよう、蓋が釘で固定された」
「遺体を載せた車列は午前7時25分に駐屯地を出発し、午前7時55分に火葬場に着いた。午前8時5分までに、7つの棺はトラックから炉に直接入れられた。遺体の火葬が終わり、炉から骨がことごとく取り出された。遺骨の微少なかけらも見過ごさぬよう特別な注意が払われた。私は骨を別々の骨壺に入れた」
「骨壺は第8軍の滑走路へ運ばれ、連絡機に積まれた。パイロットと私が乗った連絡機は太平洋上空、横浜の東30マイル(30 miles over the Pacific Ocean east of Yokohama)まで進んだ。そこで私は、極東軍司令部の1948年8月13日付書簡に従い、広範囲に遺骨をまいた」
以上が処刑後から散骨までの流れだが、この2通目の報告書には、死刑執行の日にこの一連の任務を極秘、迅速に終えようとする米軍のこだわりが随所にみられる。
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