黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
失敗だらけの役人人生㉑ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
冷戦終結は我が国の防衛力整備にも大きな影響を与えました。多国籍軍支援のために自衛隊を派遣するかどうかを巡って激論が交わされている最中、防衛庁では1991年(平成3年)から1995年(平成7年)までを対象とする中期防衛力整備5ヵ年計画の策定が進められていました。
当時、東西対立の主要正面だった欧州地域ではドイツの統一とソ連の解体などにより顕著な形で緊張緩和がもたらされ、各国が兵力と軍事費を削減しいわゆる「平和の配当」を享受するとともに、対立していた国々の間におけるCBM(信頼醸成措置)、CSBM(信頼・安全醸成措置)などの措置が急速に進展しつつありました。我が国においても、「潜在的脅威」だったソ連が姿を消そうとしているのだから、欧州諸国に倣って防衛力をスリム化し経費を抑制すべきだという声が沸き起こりました。
他方で、冷戦構造の重しが外れた中東地域の情勢は流動化し、イラクのクウェート侵攻が発生し、多国籍軍の対応が進もうとしていました。さらに、我が国周辺地域には、冷戦の残滓とも言うべき形で中国と北朝鮮が存在していました。このような不透明・不安定な状況を踏まえれば拙速に防衛費を減らすべきではなく、引き続き所要の新規装備品等を導入して防衛力の向上を図るべきだとの主張も根強くありました。
この時期は、陸自の新多連装ロケットシステム(MLRS)、海自のイージス艦、空自の空中警戒管制機(AWACS)等の大物新規装備品の要求が目白押しだったこともあり、双方の意見がぶつかり合って庁内外の調整は難航を極め、取りまとめに当たられた先輩は計画策定後に体調を崩して入院されたほどでした。最終的にこの計画は湾岸戦争が始まる直前の1990年(平成2年)12月に決定され、防衛力全般について一層の効率化、合理化の徹底を図ることとされました。
また、それまでずっと右肩上がりで推移してきた防衛関係費のトレンドが変化し、戦車や艦艇、航空機などのいわゆる正面装備に充当される経費を緩やかに減少させることとなりました。同時に、「将来における人的資源の制約の増大等に的確に対応するため、自衛官定数を含む防衛力の在り方について検討を行い、本計画期間中に結論を得る」こととされました。これは、冷戦終結と緊張緩和への期待を踏まえ、51大綱(昭和51年に初めてできた防衛計画の大綱=編集部注)を見直して防衛力整備の目標水準を下方修正するという方向性を強く示唆するものでした。
入庁からちょうど10年目の翌1991年(平成3年)5月、私は湾岸戦争が終わった直後に古巣の防衛局計画官室の先任部員に異動しました。久しぶりに戻った計画官室には、前年の中期防策定を巡る厳しい調整の跡が残されており、防衛局議メモには気の弱い私など読むだけで貧血を起こしかねないほど激越なやり取りが生々しく記録されていました。それらの記録は、それまでずっと右肩上がりだった防衛費が縮小方向へ向かう困難な道のりを予感させるものばかりでした。
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