政治の混沌を終息させ秩序を再構築するべき時期に期待されるのは……
2021年07月09日
確かな風の向きが感じられない選挙だった。
今月4日に投開票された東京都議選である。報道機関の情勢調査では自民、公明両党による与党の過半数獲得が予想されたものの、選挙当日の出口調査では自民党の失速があらわになり、事実、そうなった。
自民党の鴨下一郎・東京都連会長は開票途中の同日夜、東京MXテレビの番組で「今回の選挙は誰が勝利者というのはない」と語った。あながち負け惜しみというわけでもなかろう。
自民党はぎりぎり第一党の座を都民ファーストから奪還はしたが、最低限の目標とした「与党で過半数」には届かなかった。事前の予想に比べて都民ファーストは善戦したものの、前回よりも10議席以上も減らしている。
8から15へと議席を倍増させた立憲民主党も、自民、都民ファースト、公明、共産に次ぐ第5党にとどまる。衆院選で過半数を得て政権交代を果たすと訴えてきた経緯からすれば、一定の橋頭堡(きょうとうほ)は築いたとはいえ、完勝ではあるまい。
朝日新聞の出口調査によると、「支持政党なし」と答えた無党派層の投票先は都民ファースト25%、共産16%、自民と立憲民主共に15%の順である。この分散傾向を見れば、無党派層が事前予想に反応して強大な権力の誕生を強く牽制する、いわば「バッファー」の投票行動を起こした可能性はあるだろう。
首都決戦である都議選はこれまで、直後の国政選挙に多大なる影響を及ぼす前哨戦だった。もっと言えば、次の政治の変化を事前告知する「風」が観測出来る選挙であった。
それは、過去3回の都議選を振り返れば分かる。
2009年は民主党が吹かせた「政権交代」の風だった。初めて自民党にとって代わって第一党となり、続く衆院選で麻生太郎自公連立政権を相手に政権交代を成就する跳躍台となった。
2013年は「自民党復権」の風だった。前年末の衆院選で返り咲いた安倍晋三自公連立政権のもと、民主党を大敗させて第一党に復帰。直後の参院選で衆参のねじれの解消と「一強」体制の構築へ進むステップとなった。
そして、2017年の風は「新党」だった。直前の小池百合子都知事誕生の余勢をかって、都民ファーストが小池氏を担ぐ新党として登場。自民党を惨敗させて第1党に躍り出たうえ、直後の衆院選に向け新党・希望の党結成へと進んだ。結果的に、参加希望者に政策上の踏み絵を迫る「排除の論理」が反発を呼んで失速したが、中央政界では一時、「小池首相」誕生の可能性さえ取り沙汰された。
こうして見てくれば、今回の「勝者なき選挙」の実相は、日本政治を変動させ改革を促して来た「三様の風」がひと通り吹いた後の閉塞状況と言い得ると思う。
なぜなら、「政権交代」「自民党復権」「新党」の三つは、三つ巴で互いに影響し合いながら、平成以来30年余りの間、常に政権の存亡と政党の変転とを決定付けるキーワードとなって来たからである。
思い起こせば、平成の初めに志された政治改革の主眼は、戦後昭和期の古い政治のやり方や仕組みの刷新だった。
外交と安全保障は米国に頼り、経済成長のパイを再分配しつつ選挙の票とカネを受け取るのが、かつての自民党長期政権の特性だった。だが、米ソ冷戦から地域紛争多発へと国際情勢が変化し、日本経済が低成長を余儀なくされる時代を迎えれば、それでは通用し難い。強固な指導力を求める政治主導と政権交代可能な二大政党制の構築が、政治改革の二大目標となった。
ただ、二大政党制の構築は直線的には進まなかった。そもそも「政権交代」のさきがけとなった1993年の細川護煕非自民連立政権の誕生にしてからが、実際には「新党」との合作だった。
この時の衆院選で議席を半減させる惨敗を喫したのは、分裂前の過半数を取り戻せなかった自民党でなく、本来なら非自民連立の主役となるべき野党第一党の社会党だった。代わりに連立政権協議を主導したのは、自民党を離党した小沢一郎氏らの新生党と武村正義氏らの新党さきがけ、そして細川氏が率いた日本新党など「新党」群であった。
その後も二大政党制は変則の道を辿(たど)る。二度の「自民党復権」にしても、実は単独政権ではなく、一度目の1994年は社会党の村山富市氏を首相に担ぎ、新党さきがけを加えた「自社さ連立」により、二度目の2012年も野党期に提携を続けた公明党との連立により得たものだった。
一方、非自民勢力は、解党と「新党」結成を繰り返した。
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