黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
失敗だらけの役人人生㉓ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
2001年(平成13年)9月11日の夜は、関東を直撃して風雨をもたらした台風15号が過ぎ去り、蒸し暑くなりました。台風の動きを気にしながら総理官邸で一日を過ごした私は、早めに帰宅して夕食を済ませ、テレビでBS映画劇場を観てくつろいでいました。確かスティーブンキング原作の「ニードフルシングス」だったと思いますが、映画が半ばに差し掛かった頃、携帯電話が鳴りました。着信通知を見ると旧知のNHKの記者からでした。
電話に出ると「いまニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだ。何か知らないか?」という問い合わせでした。急いでテレビのチャンネルを変えると、黒煙を上げる高層ビルのニュース映像が飛び込んできました。「まったくわからない」と答えて電話を切り、すぐに着替えてタクシーで官邸へ向かいましたが、その間にもう一棟のビルにも航空機が突入し、どうもテロらしいという報道が流れ始めました。それを聞いて、瞬間的にトムクランシーの小説「日米開戦」のラストで日本人の民航機パイロットが旅客機で米議会に突入する場面を連想しました。
当時我々が勤務していた旧総理官邸の通称「官邸連絡室」に到着すると、同僚の国土交通省出身の参事官が既に登庁していました。世界貿易センタービルだけでなく、ペンタゴンにも航空機が突っ込んだらしいという未確認情報が流れてきて、二人でテレビニュースを見ているうちに貿易センタービルの一棟が崩落しました。信じられない映像に呆然としていたところ、総理以下主要な幹部が公邸に集まっているという連絡があり、我々もそちらへ合流しました。
公邸の小部屋に官邸幹部が集まって当面の対応を話し合っていました。連絡室のほかの参事官も来ていました。その際、ある幹部から「自衛隊が在日米軍基地を警備することは出来ないか」と問われ、私はとっさに「自衛隊と米軍が共同使用している基地なら可能性はありますが、単独で使用している基地は米軍が管理権を持っており、基地の外は警察の管轄なので自衛隊が警備することは難しいです」と答えました。また、テロ現場での救援活動に参加するため国際緊急援助隊を派遣する案も出て、航空自衛隊が運航する政府専用機を緊急援助隊の移動用にスタンバイさせるよう真夜中に防衛庁に依頼しました。
そうこうするうちに、官邸の危機管理センターに対策本部が設置されて各省庁のスタッフが集まっているということだったので、総理以下そろってセンターへ移りました。当時はちょうど現在の官邸を建築している最中で、危機管理センターは旧官邸の前庭に建てられた簡易な建物に仮住まいしていましたが、同じ建物のすぐ下の階には官邸記者クラブが入っているというなかなかスリリングな配置でした。
危機管理センターでは、総理を中心に閣僚や主要な事務方幹部が会議机に陣取り、周囲では多数の事務方が作業をしていて、フロア全体が騒然とした雰囲気に包まれていました。情報を事務方同士で共有しようとする声がついつい大きくなり、たまりかねた総理ご自身が「落ち着いて、落ち着いて」と制する場面もありました。
その夜は混乱しながらも状況把握と対応案の検討が進められ、後刻改めて安全保障会議を開いて当面の対米支援策を決定することとなりました。とっくに日付は変わっており、既に明け方が近かったように記憶していますが、閣僚は解散し、事務方はセンターに残って詰めの作業を続けました。私は同僚の参事官たちと一緒に連絡室へ戻って仮眠をとりました。くつろいで映画を観ていたのがずっと昔のことのように感じられました。
翌朝の安全保障会議では、①情勢の的確な把握、②国際緊急援助隊の派遣検討、③国内の米国関連施設等の警戒警備の強化、④国民に対する適切な情報提供、⑤国際テロに対する関係国との協力の下での対応、⑥世界及び日本の経済システムの混乱回避、などの方針が決定されました。