失敗だらけの役人人生㉓ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2021年07月29日
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
2001年(平成13年)9月11日の夜は、関東を直撃して風雨をもたらした台風15号が過ぎ去り、蒸し暑くなりました。台風の動きを気にしながら総理官邸で一日を過ごした私は、早めに帰宅して夕食を済ませ、テレビでBS映画劇場を観てくつろいでいました。確かスティーブンキング原作の「ニードフルシングス」だったと思いますが、映画が半ばに差し掛かった頃、携帯電話が鳴りました。着信通知を見ると旧知のNHKの記者からでした。
電話に出ると「いまニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだ。何か知らないか?」という問い合わせでした。急いでテレビのチャンネルを変えると、黒煙を上げる高層ビルのニュース映像が飛び込んできました。「まったくわからない」と答えて電話を切り、すぐに着替えてタクシーで官邸へ向かいましたが、その間にもう一棟のビルにも航空機が突入し、どうもテロらしいという報道が流れ始めました。それを聞いて、瞬間的にトムクランシーの小説「日米開戦」のラストで日本人の民航機パイロットが旅客機で米議会に突入する場面を連想しました。
当時我々が勤務していた旧総理官邸の通称「官邸連絡室」に到着すると、同僚の国土交通省出身の参事官が既に登庁していました。世界貿易センタービルだけでなく、ペンタゴンにも航空機が突っ込んだらしいという未確認情報が流れてきて、二人でテレビニュースを見ているうちに貿易センタービルの一棟が崩落しました。信じられない映像に呆然としていたところ、総理以下主要な幹部が公邸に集まっているという連絡があり、我々もそちらへ合流しました。
公邸の小部屋に官邸幹部が集まって当面の対応を話し合っていました。連絡室のほかの参事官も来ていました。その際、ある幹部から「自衛隊が在日米軍基地を警備することは出来ないか」と問われ、私はとっさに「自衛隊と米軍が共同使用している基地なら可能性はありますが、単独で使用している基地は米軍が管理権を持っており、基地の外は警察の管轄なので自衛隊が警備することは難しいです」と答えました。また、テロ現場での救援活動に参加するため国際緊急援助隊を派遣する案も出て、航空自衛隊が運航する政府専用機を緊急援助隊の移動用にスタンバイさせるよう真夜中に防衛庁に依頼しました。
そうこうするうちに、官邸の危機管理センターに対策本部が設置されて各省庁のスタッフが集まっているということだったので、総理以下そろってセンターへ移りました。当時はちょうど現在の官邸を建築している最中で、危機管理センターは旧官邸の前庭に建てられた簡易な建物に仮住まいしていましたが、同じ建物のすぐ下の階には官邸記者クラブが入っているというなかなかスリリングな配置でした。
危機管理センターでは、総理を中心に閣僚や主要な事務方幹部が会議机に陣取り、周囲では多数の事務方が作業をしていて、フロア全体が騒然とした雰囲気に包まれていました。情報を事務方同士で共有しようとする声がついつい大きくなり、たまりかねた総理ご自身が「落ち着いて、落ち着いて」と制する場面もありました。
その夜は混乱しながらも状況把握と対応案の検討が進められ、後刻改めて安全保障会議を開いて当面の対米支援策を決定することとなりました。とっくに日付は変わっており、既に明け方が近かったように記憶していますが、閣僚は解散し、事務方はセンターに残って詰めの作業を続けました。私は同僚の参事官たちと一緒に連絡室へ戻って仮眠をとりました。くつろいで映画を観ていたのがずっと昔のことのように感じられました。
翌朝の安全保障会議では、①情勢の的確な把握、②国際緊急援助隊の派遣検討、③国内の米国関連施設等の警戒警備の強化、④国民に対する適切な情報提供、⑤国際テロに対する関係国との協力の下での対応、⑥世界及び日本の経済システムの混乱回避、などの方針が決定されました。
その後、日本政府内では対応策の実施に向けた準備が急ピッチで進められました。テロ行為を非難する国連安保理決議も出され、我が国も各国と協調して対応する姿勢を鮮明にしました。米国はそれまで既に何度もイスラム過激派のテロの標的となっていたこともあり、本件に対しては大規模な軍事行動によって報復するだろうと予測されました。
特に、前々からテロリストの訓練キャンプが存在すると言われていたアフガニスタンが標的として取り沙汰されていました。政府内では、テロ発生直後から米国の軍事行動に対してどのような支援が可能か検討されていましたが、そうした支援の根拠になるような法律はなかったため新規立法も視野に入っていました。
テロ発生からおよそ2週間後の9月24日、総理は訪米してブッシュ大統領やジュリアーニNY市長らと会談しました。私も随行し、貿易センタービルやペンタゴンなどテロ発生現場も視察しました。2週間経っても現場には焦げ臭いにおいが漂っており、破壊と炎上の凄まじさがうかがえました。テロの現場を目の当たりにし、「世界が変わってしまった」という思いにとらわれました。
冷戦を勝ち抜き唯一の超大国として君臨していた米国のニューヨークとワシントンという二大政経中枢が、ほんの一握りのテロリストによる無差別攻撃に遭って3000人近い犠牲者を出したのです。このことは米国の圧倒的な軍事力を持ってしても防ぎ切れない新たな脅威が出現したことを示すとともに、世界に安全な場所はもはやないということを強く認識させました。既に地下鉄サリン事件の洗礼を受け、911同時多発テロ事件で20名を超える邦人の死者・行方不明者を出した我が国にとっても決して他人ごとではなく、国際社会と足並みを揃えて「テロとの闘い」に関わるべきだとの機運が高まりました。
翌10月にはテロの脅威に対してあらゆる手段を用いる用意があるとする国連安保理決議に基づき、テロリストの引き渡しを拒んだタリバーン政権下のアフガニスタンに対し米国など有志国連合が軍事行動を開始しました。我が国も湾岸戦争の失敗を教訓として迅速に対処し、異例の速さで新規の時限立法としてテロ対策特措法を成立させました。
当時、有志国連合の艦艇はインド洋においてテロリストや武器の移動、あるいは麻薬などのテロ資金源の輸送を防ぐため海上阻止活動を実施していました。テロ対策特措法は、この活動を実施している有志国連合の艦艇に対して洋上で給油支援を行う権限を海上自衛隊に付与するものでした。同法の成立とともに、海上自衛隊艦艇は速やかにインド洋へ派遣されました。この活動は、史上初めて自衛隊が「戦争支援」を行うものでした。
この頃私は内閣参事官(課長クラスです)という身分をいただいて総理官邸で勤務していました。発令上は内閣総務官室の所属でしたが、仕事の中身は総理の首席秘書官(飯島勲・首相秘書官=編集部注)の指示を受けながら特命事項を担当し、事務秘書官らとともに総理をお支えするというものでした。
歴代内閣では、政務の首席秘書官と大蔵、外務、警察、通産の各省庁から派遣された四人の事務秘書官が総理を直接支えていましたが、2001年(平成13年)4月に発足した当時の内閣はこの体制を拡充しました。首席秘書官の発案で、上の四省庁以外の役所から課長クラスの人間を集めてチームを作り、事務秘書官らと一体となって総理をサポートする体制が作られたのです。このチームは「官邸連絡室」と呼ばれ、五つの省庁から集められた内閣参事官で構成されていました。防衛庁も五省庁の一つとして招集され、年次的に適合していた私が派遣されたのです。
役所にとって総理の御意向は極めて重要であり、日常的に総理と接する事務秘書官ポストは垂涎の的でしたが、むやみに事務秘書官を増やすことは出来ません。このため、各省庁にとって「官邸連絡室」は事務秘書官に代わるものとして願ってもないものでした。同時に官邸サイドにしてみると、各省庁と直接のパイプがあれば正確かつ効率的に総理の御意向を周知徹底することが可能となります。こうして官邸連絡室は、官邸が各省庁と緊密に連携しつつ主導性を発揮する上で大きな役割を果たしました。
初めて作られた組織だったので最初は手探りでしたが、徐々に日常業務の流れも確立して行きました。最初にオフィスとして割り当てられたのは旧官邸一階の一角にあった副総理室で、奥には古びた浴槽を備えた小部屋も付属していました。この副総理室は、昔、緒方竹虎副総理が使っておられたという噂でした。911同時多発テロやその後のアフガン戦争と洋上給油、さらに2001年12月に発生した九州南西沖北朝鮮不審船撃沈事案などは、この旧総理官邸の連絡室で経験しました。
官邸連絡室の組織が出来てからほぼ一年後の2002年(平成14年)4月、新たな官邸が竣工し、連絡室も新オフィスに引っ越しました。新官邸では総理執務室が5階に置かれ、連絡室は一つ下の4階の一室をオフィスとして割り当てられました。その頃から、連絡室に所属する5人の参事官のうちの一人が、一週間交代で総理秘書官室に勤務するという慣行が出来ました。この週番勤務や総理を囲む昼食の場などを通じて、我々は総理の言葉や息遣い、総理周辺の反応などを体感することになりました。
官邸連絡室の参事官の仕事は多様でした。総理の強いこだわりのある施策を省庁の反対を押し切って進めるための先兵の役割を果たすこともあれば、ボトムアップで重要な情報を総理の耳に確実に入れるという役割もありました。前者の典型例は、2001年(平成13年)5月のハンセン病訴訟控訴断念です。誰も予想しなかった本件に関する総理の歴史的な決断を、談話の形にまとめたのは厚生労働省出身の参事官でした。この一事で、出来たばかりの官邸連絡室の存在が大きくクローズアップされました。
また、後者の例で印象的だったのは党首討論です。2004年(平成16年)のある党首討論の冒頭、「日本の食糧の自給率について御存知ですか、総理」という質問が出ました。総理が知らないような細かい数字を問うて動揺を誘い、ペースを乱す質問戦術です。ところが総理はこの挑発を「何か試験官にテストされる生徒みたいなことでありますが」と受け流しながら「カロリーベースでは大体40%、取り方によってお米は90%以上」と平然と答えられたのです。
先制パンチを繰り出したつもりだった野党党首は鋭いカウンターを喰らって腰が砕け、この日の討論は総理ペースに終始しました。「農政について」という漠然とした通告から食糧自給率の質問を予想し、直前に総理へ丁寧に説明した農林水産省出身の参事官のファインプレーでした。私はと言えば、こういう際立った活躍とは無縁で、ひたすら総理と防衛庁をつなぐ仕事に集中していました。
ブッシュ米大統領は、アフガン戦争を開始した後の2002年(平成14年)1月の一般教書演説で、北朝鮮、イラン、イラクの三か国を「悪の枢軸」と呼び、大量破壊兵器を開発・保有し、国際テロを支援しているとして名指しで非難しました。いわゆるネオコングループの影響が拡大し対イラク強硬論が強まったのを受け、米国は大量破壊兵器の関連施設の査察を繰り返し要求しました。その後、国連機関による査察も行われましたが、イラクの非協力的な態度もあって、大量破壊兵器の保有状況は明確になりませんでした。イラクに対する国際社会の姿勢は一致せず、武力行使を主張する米英の立場は必ずしも支持されませんでした。
我が国も国連を中心とする平和的解決を主張し、それを米国にも直接求めましたが、米英両国は武力行使へと突き進みました。我が国政府は、外交努力を継続しながら内部では武力行使が行われた場合の対応措置についても検討を進めました。最終的に、米英を中心とする多国籍軍は2003年(平成15年)3月19日(日本時間20日)にイラクに対する軍事行動を開始しました。総理は開戦と同時に直ちに武力行使の支持を表明するとともに、緊急人道支援等の措置を発表しました。
実はこの年、私の両親は結婚50年の節目を迎え、3月21日に山形で金婚式を行うことになっていました。既に勘当を解かれていた私も帰省して参加する予定となっており、遅ればせながら親孝行の真似事をするチャンスだったのですが、開戦により残念ながら出席はかないませんでした。
この戦闘によりイラクのサダム・フセイン政権は打倒され、同年5月にはブッシュ米大統領が主要な戦闘の終結を宣言しました。しかし、その後もイラク国内では多国籍軍の暫定統治に対する武装闘争が後を絶たず、長期にわたる内戦状態に陥りました。
戦闘終結宣言後の同年7月、イラクにおける人道復興支援等を可能とする特別措置法が国会を通過しました。洋上給油という形でアフガン戦争を支援した我が国でしたが、イラクの陸上で戦闘を直接支援するのはハードルが高く、国連PKOなどで経験済みのインフラ整備などの復興支援を担うこととなりました。この法律により、自衛隊はイラクの非戦闘地域において医療、給水、公共施設の復旧・支援、人員・物資の輸送支援などを行うことが可能となりました。
法成立後、人道復興支援活動のニーズがあり、なおかつ非戦闘地域の要件に合致するような派遣先を探すため、政府は現地調査を重ねました。そのさ中の2003年(平成15年)11月、イラク国内で二人の日本人外交官が銃撃に遭って殉職するという痛ましい事件が発生しました。
この事件の直後、ある外務省幹部がつぶやいた一言が忘れられません。
「自衛隊は憲法の制約があるので、海外で戦闘に巻き込まれないように安全な場所で安全な活動を行うよう求められる。しかし、自分たち外交官の安全は誰も気にしない」
自衛隊の海外派遣に当たって、防衛省は当然のことながら外務省と緊密に連携しますが、両省の思惑は必ずしも100%一致する訳ではありません。一般論として言えば、外務省は我が国の国際的地位を向上させるため、出来るだけ多くの事案にコミットし、出来るだけ多くの活動に自衛隊を参加させたいと考えがちです。これに対して防衛省は、総論賛成・各論精査という立場から、我が国の安全保障に直接関係する活動に限りたいという姿勢になりがちです。
通常時であっても、自衛隊は訓練だけでなく警戒監視や情報収集などの任務に当たっているので、隊力に余裕がある訳ではありません。日本から遠く離れた外国で活動する場合には、長く伸びた補給線に苦労します。また、海外での活動は国内で必ず批判され、武器使用権限についても制約しようとする論議ばかりが先に立ち、ともすれば隊員の安全確保に懸念が生じる場合すらあります。あくまで一般論ではありますが、「出したがる外務省、慎重な防衛省」の構図の下、防衛省側は「外務省さんは何でも出ろ出ろと言うけれど、苦労するのは防衛省なんだ」というフラストレーションを感じがちなのです。
こうした構図に慣れていた私は、イラクにおける二人の外交官の殉職とその後の外務省幹部のつぶやきを聞いて「みんな気がつかないけれど外交官も危険を冒して苦労しているんだ」という重い本音を突きつけられたように感じ、とても複雑な気持ちになりました。
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