黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
失敗だらけの役人人生㉔ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
国際社会が国際テロという従前の国家間紛争とは全く異なる形の脅威への対処を迫られる一方で、我が国は北朝鮮と中国という旧来型の脅威に直面することとなりました。北朝鮮は第1次核危機の収束後も執拗に韓国に対する軍事的挑発を繰り返すとともに、1998年(平成10年)8月には我が国の東北地方上空を飛び越える軌道で弾道ミサイルを発射するという暴挙に出ました。核疑惑に加えて長射程ミサイルも開発されていたのを目の当たりにして、北朝鮮への脅威感は飛躍的に高まり、この年12月には我が国独自の情報収集衛星の導入が決定されました。
さらに2001年(平成13年)12月22日の土曜日、北朝鮮のものと思われる不審船が九州南西海域で発見され、官邸連絡室に勤務していた私は海上保安庁の巡視船が追跡を開始しているとの連絡を受けて危機管理センターに登庁しました。これに似た事件は二年前の1999年(平成11年)3月に能登半島沖で発生しており、この時は海上保安庁の巡視船では追いつけず、自衛隊史上初の海上警備行動命令を受けた護衛艦が追跡しましたが不審船の捕獲には至りませんでした。この事案から教訓を学んだ海上保安庁は、航空機と巡視船で長時間にわたり粘り強く追跡して停船・検査を試みました。
追跡の一部始終は危機管理センターのモニターでフォローしていましたが、深夜になって突如不審船から銃撃が開始され一気に状況が緊迫しました。巡視船も応戦して銃撃戦となったところ、唐突に不審船が爆発・炎上し沈没したとの報告が入ってきました。不審船の乗員が波間に浮いていて海上保安庁が救助を試みているとの知らせもありましたが、ほどなく救助を拒否して皆沈んでいったとの報告がありました。現場で撮影された動画には銃撃戦の最中に不審船からロケット弾と思しきものが発射される様子が写っており、翌日これを見せられた時には慄然としました。翌年の秋に引き揚げられた不審船からは数々の武器が発見され、我が国に対する北朝鮮の侵入工作の一端が明らかとなり、国民に衝撃を与えました。
不審船が引き上げられた直後の2002年(平成14年)9月17日、電撃的に総理が訪朝して初の日朝首脳会談が行われました。この件の調整は総理周辺と限られた外務省関係者のみで極秘裏に進められ、官邸に勤務していた我々も発表まで全く気がつきませんでした。会談では北朝鮮が拉致を公式に認めた上、日朝平壌宣言が合意され、その後拉致被害者とその家族が相次いで帰国するなど画期的な進展がありました。
しかし、これと並行してウラン濃縮計画が発覚しKEDOプロセスが凍結されると、北朝鮮は核関連施設の稼働や建設を再開し、2003年(平成15年)にはまたもNPT脱退を宣言しました。新たに開始された六者協議プロセスも結果的には北朝鮮の時間稼ぎに手を貸しただけに終わり、北朝鮮は核・ミサイル開発に邁進しました。日本政府は同年12月、不安定で予測困難な北朝鮮を抑止するため、米国の拡大抑止を補強するものとして弾道ミサイル防衛システムの導入を決定しました。
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