失敗だらけの役人人生㉔ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2021年08月05日
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
1976年(昭和51年)に初めて「防衛計画の大綱」(51大綱)が策定されてから19年後の1995年(平成7年)、冷戦終結を受けて国際環境の安定化にコミットしつつ防衛力のコンパクト化を図った07大綱が策定されました。この07大綱を皮切りに、テロなど各種の事態に実効的に対応することを目指した16大綱、「動的抑止」としてプレゼンスオペレーションの考え方を宣言した22大綱、防衛費を増勢に転じて中国・北朝鮮の脅威に対応しようとした25大綱、そして先進技術の導入などにより新たな戦い方への対応を目指す現行の30大綱と、平成時代30年の間に五つの大綱が策定されました。これは、国際安全保障環境と国内政治・経済事情が、ポスト冷戦期において極めて流動的に推移したことの表れだと言えます。
07大綱策定の翌年の1996年(平成8年)、戦後初めて防衛庁長官(臼井日出男氏=編集部注)の訪ロが実現し、秘書官だった私も随行しました。その際、かつて我が国の脅威だった旧ソ連製の戦闘機Mig-29とSu-27が我々の目の前でデモフライトを行いました。ちょっと前なら考えられなかった事で、私はその後の西側諸国とロシアとのスムーズな関係改善を疑いませんでした。
※イメージです
ところが、そのわずか2年後の1998年(平成10年)に英国国防大学(RCDS)に留学し、さらに英国防省で短期研修を受けた際には、欧州が大国ロシアとの関係構築に苦労している状況を垣間見ることとなりました。RCDSへ講演に来た駐英ロシア大使は、アジア通貨危機の直撃を受けてロシアが深刻な財政危機に見舞われている状況を紹介した上で「ロシアは大国であり世界経済に与える影響も大きいのだから、世界各国はロシアを支援すべきである」と言い放ちました。外交の世界では珍しくないレトリックだったのかも知れませんが、私には大国意識丸出しの尊大な言い方に聞こえました。
さらに、英国防省の対ロ信頼醸成の担当部署で研修を受けた際には、ロシアの大国意識(とNATOへの警戒心)が信頼構築を妨げているという愚痴を聞きました。これらの経験を通じ、ソ連は消滅しても依然として大国ロシアが存在していることを実感し、イデオロギー対立に終止符が打たれても国家間の複雑な地政学的競争関係は基本的に変わらずに残存しているのだという感慨を持ちました。
英国から帰国後、1999年(平成11年)夏に運用局運用課長を拝命すると、国内外で発生する大規模災害や特殊災害、さらには「2000年問題」等に対処しながら21世紀を迎えることとなりました。その後、総理官邸に異動すると、半年もたたないうちに世界の誰も予想もしていなかった911米国同時多発テロが発生し、「テロとの闘い」が国際安全保障上の課題として急浮上しました。
民間人などを無差別に攻撃するテロリストグループを相手とする闘いは、国家間の軍事紛争とは全く異なるもので対応は困難を極めました。この闘いを支援するため、自衛隊もインド洋での洋上給油やイラクでの復興支援など前例のない活動に取り組むこととなりました。
国際社会が国際テロという従前の国家間紛争とは全く異なる形の脅威への対処を迫られる一方で、我が国は北朝鮮と中国という旧来型の脅威に直面することとなりました。北朝鮮は第1次核危機の収束後も執拗に韓国に対する軍事的挑発を繰り返すとともに、1998年(平成10年)8月には我が国の東北地方上空を飛び越える軌道で弾道ミサイルを発射するという暴挙に出ました。核疑惑に加えて長射程ミサイルも開発されていたのを目の当たりにして、北朝鮮への脅威感は飛躍的に高まり、この年12月には我が国独自の情報収集衛星の導入が決定されました。
さらに2001年(平成13年)12月22日の土曜日、北朝鮮のものと思われる不審船が九州南西海域で発見され、官邸連絡室に勤務していた私は海上保安庁の巡視船が追跡を開始しているとの連絡を受けて危機管理センターに登庁しました。これに似た事件は二年前の1999年(平成11年)3月に能登半島沖で発生しており、この時は海上保安庁の巡視船では追いつけず、自衛隊史上初の海上警備行動命令を受けた護衛艦が追跡しましたが不審船の捕獲には至りませんでした。この事案から教訓を学んだ海上保安庁は、航空機と巡視船で長時間にわたり粘り強く追跡して停船・検査を試みました。
追跡の一部始終は危機管理センターのモニターでフォローしていましたが、深夜になって突如不審船から銃撃が開始され一気に状況が緊迫しました。巡視船も応戦して銃撃戦となったところ、唐突に不審船が爆発・炎上し沈没したとの報告が入ってきました。不審船の乗員が波間に浮いていて海上保安庁が救助を試みているとの知らせもありましたが、ほどなく救助を拒否して皆沈んでいったとの報告がありました。現場で撮影された動画には銃撃戦の最中に不審船からロケット弾と思しきものが発射される様子が写っており、翌日これを見せられた時には慄然としました。翌年の秋に引き揚げられた不審船からは数々の武器が発見され、我が国に対する北朝鮮の侵入工作の一端が明らかとなり、国民に衝撃を与えました。
不審船が引き上げられた直後の2002年(平成14年)9月17日、電撃的に総理が訪朝して初の日朝首脳会談が行われました。この件の調整は総理周辺と限られた外務省関係者のみで極秘裏に進められ、官邸に勤務していた我々も発表まで全く気がつきませんでした。会談では北朝鮮が拉致を公式に認めた上、日朝平壌宣言が合意され、その後拉致被害者とその家族が相次いで帰国するなど画期的な進展がありました。
しかし、これと並行してウラン濃縮計画が発覚しKEDOプロセスが凍結されると、北朝鮮は核関連施設の稼働や建設を再開し、2003年(平成15年)にはまたもNPT脱退を宣言しました。新たに開始された六者協議プロセスも結果的には北朝鮮の時間稼ぎに手を貸しただけに終わり、北朝鮮は核・ミサイル開発に邁進しました。日本政府は同年12月、不安定で予測困難な北朝鮮を抑止するため、米国の拡大抑止を補強するものとして弾道ミサイル防衛システムの導入を決定しました。
中国は07大綱策定の翌年1996年(平成8年)3月の台湾初の総統選挙に対して圧力をかけるため、前年から台湾周辺に訓練と称してミサイルを撃ち込むなどして軍事的緊張を高めました。この頃、法案の内容は忘れてしまいましたが、防衛庁提出法案の趣旨説明質疑のため大臣が本会議に出席する機会がありました。閣僚が本会議場のひな壇に座る際には、登壇時刻が来るまで議長室に隣接する議長サロンで待機するのが慣例となっています。当時防衛庁長官秘書官だった私も、大臣と一緒にサロンに控えていました。
その日は総理答弁も予定されていたので、大臣だけでなく総理(橋本龍太郎氏=編集部注)も議長サロンで出番を待っておられました。そこへたまたま衆議院議長も合流され、「どうですか、最近?元気にしておられますか?」と総理に話しかけられました。ところが、総理は「いや、元気じゃないよ。」と真剣な顔で答えられ、「台湾で武力紛争が始まるんじゃないかと心配で夜も眠れないんだ」とおっしゃるのです。総理は台湾海峡の緊張状態をそこまで深刻に受け止めておられるのだ、と驚かされたのを覚えています。
この時は、米国が二つの空母打撃群を台湾周辺に派遣し、それ以上の軍事衝突には至らずに終わりました。絶対に譲れないはずの台湾問題について米国の介入を許したことは、中国が米国と肩を並べ得る軍事力の保有を目指して邁進するキッカケの一つとなりました。
その後、中国は東シナ海や南シナ海、さらには我が国周辺海域で軍事行動を活発化させました。私が運用課長を務めていた2000年(平成12年)前後には、中国の海洋調査船や情報収集艦が我が国を周回するといった活動が目立つようになりました。その頃、海上自衛隊の翌年度の訓練計画について海幕と議論したのを今でも鮮明に記憶しています。
当時の海幕防衛部長は後に海幕長、さらに統幕長を務められた方(斎藤隆氏=編集部注)でしたが、「最近、中国海軍が東シナ海へ頻繁に進出して訓練や演習を行うようになっている。押し込まれないように、こちらとしても来年度は東シナ海での訓練・演習の機会を増やそうと考えている」とおっしゃったのです。今でこそプレゼンスオペレーションの考え方は政府内で広く共有されるようになってきましたが、当時の私にはそうした発想がなく、部長の発言は強く印象に残りました。
三つの自衛隊の中で海自は米軍と最も緊密な関係を構築しており、米海軍の考え方によくなじんでいます。我々が好むと好まざるとに拘わらず、世界各国の軍隊は自らのプレゼンスの効果を考えて行動しているのだ、という現実に気づかされた発言でした。さらに、運用課長時代には、中国の海南島付近で米海軍P-3C哨戒機と中国軍戦闘機が接触する事故(2001年(平成13年))も発生しました。
それから三年後の2004年(平成16年)には中国の原子力潜水艦による領海内潜没航行事案が発生し、海上警備行動の発令を巡って私が大失敗を犯したのは既述の通りです。これらの事案はいずれも外交的に穏便に解決され、中国に対する国際社会の警戒感が決定的に高まることはありませんでした。しかし、この頃中国はいわゆる「韜光養晦(トウコウヨウカイ)」路線に従って静かに実力を蓄え、自国の国益を守るとともに既存の国際秩序に挑戦する機会を狙っていたのです。
平成時代に入り大規模災害や国際貢献等の現場で自衛隊の活躍が脚光を浴びる機会が急激に増えましたが、07大綱策定後もこの傾向は続きました。1996年(平成8年)の東海村ウラン加工施設における臨界事故や2004年(平成16年)の新潟県中越地震など国内の災害派遣のみならず、1996年(平成8年)に開始された中東ゴラン高原における停戦監視活動(UNDOF)や2002年(平成14年)から2年間にわたる東ティモール国際平和協力業務などの国連PKO活動、さらには1998年(平成10年)のホンジュラスにおけるハリケーン被害、1999年(平成11年)のトルコ大地震、2001年(平成13年)のインドでの大地震などに対する国際緊急援助活動など、自衛隊は幅広い活動に従事しました。
さらに、1999年(平成11年)に朝鮮半島有事などの際の米軍支援要領などを定めた周辺事態安全確保法が制定されたのを手始めに、2001年(平成13年)のテロ対策特措法、2003年(平成15年)のイラク人道復興支援特措法、さらには武力攻撃事態対処関連法(いわゆる有事法制)など自衛隊の行動に関連する重要な法律が次々に整備されました。
余談ですが、この時期に法制度の立案、法制局審査、各省庁との調整、与党との調整、国会提出から審議成立に向けた運びなど数多くの経験を積んだおかげで、防衛省の立法事務能力は飛躍的に向上しました。その過程で、法案などの案件について、与党政調事務局のアドヴァイスを受けながら与党の政策決定プロセスに乗せてもらうという仕事の進め方も確立して行きました。他方、自衛隊の活動が飛躍的に増加したのとは対照的に、深刻な財政難から防衛関係費の抑制傾向が続き、1997年(平成9年)をピークとして減額へ転じました。
こうした内外情勢の変化を受けて、政府は07大綱を見直して新たな防衛計画の大綱を策定することとし、07大綱策定当時と同じように総理の諮問機関として「安全保障と防衛力に関する懇談会」が設置され、2004年(平成16年)4月から議論が開始されました。
当初、私は官邸連絡室の参事官としてバックシートで懇談会の議論を傍聴していたのですが、8月に内閣官房安危室の総括参事官に異動すると同時に、懇談会事務局の司令塔として各種ロジ作業や報告書の取りまとめの補助作業などに携わることとなりました。この人事については、最終報告がまとまった後で懇談会の座長から「事務局の責任者が途中で代わるなどという人事は民間ならあり得ない。役所って何を考えているのかと思った」と呆れられましたが、私自身はそういう事を考える余裕もなく最終報告とりまとめのために委員の間を走り回っていました。
この年には米大リーグでイチロー選手が年間最多安打記録を84年ぶりに更新するという歴史的偉業を達成しましたが、その頃は毎週土日も休みなくオフィスで仕事をしていたので、記録達成の瞬間も報告書の最終とりまとめに追われながら役所で見た記憶があります。
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