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“頑張ろうよ”ではなく“考えさせられる”表現でありたい~ラッパー・ヘススさん

誰かにとってのルーツはその人の“はじまり”。恥じずに、誇ること

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 2021年1月27日夜、私は気になっていたオンラインイベントに仕事の都合で参加できず、SNSで参加者たちの感想をぼんやりと眺めていた。この日行われていたのは、多様な子どもたちの居場所や孤立をテーマにした毎日新聞の連載、『にほんでいきる』が、2020年度新聞協会賞を受賞した記念に開催されたイベントだった。

 ふと、そのイベントに参加していた知人の投稿が目に留まった。「イベント中に披露してもらったものだけど、この曲は刺さった。何度も無限ループで聴いてる」。私はその投稿についていたリンクを何気なくクリックした。

 シェアされていた動画は、そのイベントにライブで参加していたラッパー、Junior Hsus(ジュニオールヘスス)による『きっとずっと』のMV(ミュージックビデオ)だった。その曲は、ラップに疎い私がそうしたジャンルにイメージする激しい曲調ではなく、むしろ淡々としたリズムで、でもだからこそ、歌詞の言葉ひとつひとつがくっきりと聞こえ、心を震わせた。

 人に優しくできない我々に誰かを裁く資格はない 大切な命奪われりゃ別 心ってやつにも脳があるのか――

 私はこの歌詞の奥に秘められたものに、触れたくなった。

ヘススさん、川崎大師駅近くの路上で

〈お知らせ〉
「論座」ではポッドキャストの番組を始めました。初回はこの論考の筆者であるフォトジャーナリストの安田菜津紀さんをゲストに、難民や入管の問題について松下秀雄編集長と話し合っています。朝日新聞ポッドキャストでお聞きいただけます。記事は「こちら」からどうぞ。

母はペルー出身、父のルーツは沖縄

 ヘススさんの母は、南米ペルーの出身だ。なんと母方の祖父はサッカーでペルー代表選手に選ばれたこともあるという。

 「俺もサッカーやってみたんですけど、ダメでしたね」

 地元、川崎市観音近くのカフェで生い立ちを語ってくれたヘススさんは、MVでは見られなかったはにかんだ笑顔が印象的な人だった。

 ヘススさんの父のルーツは沖縄にある。沖縄から海外へと移住する人々の歴史は、すでに明治時代から始まっていた。約20万人もが犠牲になった沖縄戦後、米軍による大規模な土地接収や人口増加などの社会背景も重なり、米軍支配下の琉球政府は、積極的に海外移民を進めていった。

 父方の祖父母は戦後、沖縄からペルーに渡り、父はペルーで育っている。そして、父が30代後半になってから、仕事の都合で母や姉と一緒に、故郷である現在の沖縄県本部(もとぶ)町に戻ってきたのだ。

沖縄で生まれ、川崎市に移住

 ヘススさんも沖縄で生まれたが、物心ついた時にはすでに神奈川県川崎市に移り住んでいたため、沖縄の記憶はない。きょうだいは姉が3人、ヘススさんは末っ子だ。一番上の姉とは、17歳年が離れている。

 「上の姉はペルーで学校を卒業してから沖縄に来たみたいですが、在学中だった下の姉ふたりは転入の手続きが上手くいかず、日本では学校に行けていないんです。父親の日本語も片言だったし、そういう壁もあったんだと思います」。

 アルバム『Serpent Temptation』に収録されている『mi testamento』の歌詞には、ヘススさんの幼い頃の記憶が綴られているが、曲の頭から気になる言葉で始まっている。「2150gと小さく生まれた俺を最初に抱いたのは母じゃなく一番上の姉……」と、姉が母親代わりだったことがうかがえた。

 「母親は俺が生まれる前から心を病んでしまっていて、時折錯乱してしまうことがあったみたいです。だから歌詞にあるように、二歳くらいまでは一番上の姉のことを母親だと思っていました。“横にいるおばあちゃん誰だろう”って思ってたら、それが母親だったんです」

昨日のことより鮮明な保育園時代の記憶

1歳10か月ごろ、祖母の家にて(本人提供)
 歌詞は保育園時代の日々に続いていくが、「昨日のことよりその時期の記憶の方が鮮明です」とヘススさんは語る。

 「言葉も通じないし、“あ、俺違うんだな”って分かったの、早かったです。最初の自己紹介で“ヘススです”って挨拶しますよね。次の日には“ガイコクジン、ガイコクジン”って言われてました。子どもは純粋なんで、きっと大人たちの言葉を拾っていただけだと思いますが」

 そうした言葉を投げつけられることに留まらず、砂場の砂をかけられるなど、周囲の態度は徐々にエスカレートしていく。

 保育園から家に帰ると、大好きだった『トムとジェリー』に加え、ホラー映画の『エルム街の悪夢』を何度も繰り返し見ていたという。子ども向けの映画とはとても思えないが、「観ることでストレスを吐き出していた感じですね。それで次の日、強くなった気持ちで保育園に行くようにしていたんです」と、当時の心境を振り返る。

 父は溶接工場の仕事が忙しく、姉たちも働いたため、どうしてもヘススさんを日中、保育園に預けなければならなかったという。

 「家族で一緒に過ごす時間は少なかったんですけど、不思議と“寂しい”って思わなかったんですね。“保育園嫌だ!”という感情の方が大きくて、そっちにマインドを持っていかれてたのかもしれないです」

暴力に明け暮れた小・中時代

小学校の校庭で(本人提供)
 小学校に入ると、いじめはさらに陰湿になっていった。

 「画鋲とか、刺されたりしましたよ。それで、“強くなんないとだめだ”って、間違った選択をするんですよね。メンタル強くなろうじゃなくて、暴力を選択しちゃったんです。危害を加えてくる人間に、暴力で返していく。馬鹿にしてきたら手を出すって感じでした」

 中学校に入ると、周囲で徐々に「派閥」のようなものができはじめる。

 「グループになると、先輩とかがからんでくるんですよね。何分以内にそこのマンションのバイク盗まないとバイクオイル飲ませる、とか……。それで結局みんな飲まされて病院に運ばれたり……。一週間くらい、口の中がオイル臭かったのを覚えてます。
 バイクでひいたり、バットで殴ったりを、やったりやられたりでした。もちろん嫌でしたよ。でも、こいつらといるためには強がらないとって、無意識に思ってましたね。居心地はよくなかったけど、居場所にしちゃってたんです」

心の奥底では“俺の居場所じゃない”

 夜中まで外を出歩いては補導される。その度に迎えに来てくれたのは姉たちだった。

 「何回目かになると、“またか”って姉に言われましたけど、毎回“ごめんなさい”って謝っていました。遊んでいるときはなんてことないんですけど、自分の心の奥底にある声、命の声を聞くと、“俺の居場所じゃない”って思いになるんですよね。笑える日々でしたけど、戻りたくないですね」

 高校に進むと、先輩たちが捕まるなどしてグループから離れる機会があったものの、その後も自分たちだけで暴れることもあった。「友達が横浜まで行って喧嘩になったときは、そっちまで行って加勢したりとか。そういう時だけ頼ってくるんですよね」、と苦笑いする。

鑑別所でラップの歌詞を書き始めて

 バイトではなく、働きたい……と高校を中退し、土間コンクリートの会社に就職。その後、職を変えて今は倉庫でフォークリフトを操る仕事を続けている。仕事に就いた後も、人と言い争いになり、暴力を振るってしまったことが何度かある。そんなヘススさんが歌詞を書き始めたきっかけは、鑑別所に入ったことだった。

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