黒江哲郎(くろえ・てつろう) 元防衛事務次官
1958年山形県生まれ。東京大学法学部卒。81年防衛庁に文官の「背広組」として入り、省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長など要職を歴任して2017年退官。現在は三井住友海上火災保険顧問
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
失敗だらけの役人人生㉕ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓
2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。
防衛省在職中には、いくつか大きな仕事に携わる機会も頂きました。今振り返って感じるのは、そうした大きな仕事を成就させる際には、必ずその仕事の大義を信じ、これを推進しようという信念を持ったキーパーソンが存在するという事です。今回は、その具体例として情報本部の設立に関する経緯をご紹介したいと思います。
1983年(昭和58年)9月1日の朝、テレビで米国ニューヨークを飛び立って韓国ソウルへ向かっていた大韓航空機007便が北海道北方沖で行方不明になったというニュース速報が流れました。入庁3年目だった私は、研修のため泊まり込んでいた部隊でこの知らせを聞きました。
当初、「樺太に強制着陸させられた」とか「ハイジャックされた」、「ソ連に撃墜された」といった様々な憶測報道が流れましたが、そのうちに米国から「ソ連軍機が007便を撃墜した」との発表がなされました。その数日後、国連安保理の席上でソ連軍機と地上管制官との無線によるやり取りの録音が流され、ソ連軍機が大韓航空機を撃墜したことが明らかになりました。
動かぬ証拠を突きつけられたソ連は撃墜を認めざるを得ず、国際社会の中で更に孤立を深めました。同時に、ソ連を追い込んだこの無線を傍受したのは自衛隊の情報機関だったことも公表されました。その頃情報部門に勤務していた同期生がそれを聞いて「やった!」と言っているので、理由を聞いてみると「調別が良い仕事をしたんだよ」という答が返ってきました。私が「調別」という聞きなれない機関のことを知ったのは、この時が初めてでした。
大韓航空機撃墜事件から五年近く経った1988年(昭和63年)3月上旬のある日、防衛局運用課の部員だった私は上司の運用課長に呼ばれました。当時担当していた統合運用強化の話かと思って課長室に入ったところ、渡された資料には運用ではなく情報組織の統合案が記されていました。事と次第を飲み込めないまま、課長から「この夏に調査第1課に異動して統合情報組織の設立を担当してもらう。ついては今月末から米国の情報組織を勉強してきてほしい」と言い渡されました。
聞けば統合情報組織というのは、当時の防衛局長(西広整輝氏=編集部注)が、総理などの意思決定に防衛庁の情報をより有効に生かしてもらうために発案したとのことでした。寝耳に水の話で、さらに英語には全く自信がなかったため戸惑いましたが、私に拒否権などありませんでした。陸幕運用課の二佐が一緒に行くことになっているから大丈夫、と励まされ、3月末に二人で成田を飛び立ちました。
そもそも米国本土に足を踏み入れるのも初めて、防衛庁の情報組織やその活動についてもほとんど知らず、英語もからっきし、という状態ですから調査はスムーズには行きませんでした。しかし、米国側は防衛庁のこのプロジェクトに大いに関心を持っていて、国防情報局(DIA)の情報官が付きっきりで米国国防省の様々な情報組織を連れ回してくれた上、文字通り手取り足取り米国の情報活動や予算の仕組み、組織統合の経験などを親切にブリーフしてくれました。四週間にわたる調査で到底覚え切れないほどの情報を頭に詰め込んで、4月末に帰国しました。
帰国するとすぐに防衛局長に呼ばれ「何でもいいから考えていることを言ってごらん」と言われました。局長は25年も先輩で、その頃既に「ミスター防衛庁」と呼ばれていて、私などまともに口をきいたこともありませんでした。緊張し切って説明したのは、米国で教えられたことの受け売りでした。詳しくは覚えていませんが、「Intelligence Cycle」すなわち情報の要求→収集→分析→配布・報告というサイクルが重要であること、質の高い分析のためには様々な情報源から集めた情報を一つの分析組織に集約して「All Source Analysis」を行うのが効果的であることなどを話したのだと思います。
30分ほどの説明が終わった後、局長はぼそりと一言、「まあそういうことだよ」とおっしゃいました。よくわからないながらも、帰って良いという事だけは理解し、大汗をかきながら局長室を出ました。その後ほどなくして、調査第1課への異動を命じられました。