メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

培養肉と食料安全保障~台頭する細胞農業がもたらす経済安全保障上の可能性

細胞を培養して食品を生産する技術が急速に進展。世界の潮流に遅れないために日本は…

井形彬 吉富愛望アビガイル

各国企業が熾烈な開発競争

 その製造過程をかみ砕いて説明しよう(下の図2参照)。

 (1)まず動物から生きた細胞を取り出す、(2)その細胞を栄養価の高い培養液にひたす、(3)ビールの醸造装置のような「バイオリアクター」で増殖・分化させ、もとの動物と“同じ”「肉」を作る――というものだ。培養液の成分は、我々の体内で筋肉等が成長する際に消費される成分とほぼ同じものを使用する。

拡大図2:採取した細胞を、穀物などからとった糖分やアミノ酸などが入った「培養液」に浸して成長させる。(写真はMosa Meat提供)

 世界で初めて細胞農業により作られた食品は、8年前の細胞培養肉バーガーだ。当時はこのバーガーをひとつ生産するのに、研究費も含めて約3,500万円かかっていたが、技術発展で急速にコストダウンが進んでいる。この世界初の細胞培養肉バーガーを作ったチームが設立したオランダ企業のMosa Meat社は、今年中にバーガー一つ1,200円程度まで価格を落とす方向で研究開発を進めている(図3参照)。

拡大図3:オランダのMosa Meat社による細胞培養肉バーガー。当社は欧州における細胞農業産業団体であるCellular Agriculture Europeの立ち上げにおいても主導的な役割を果たしている。(写真はMosa Meat提供)

 技術革新は一般に考えるよりもはるかに早いテンポで進んでいる。具体的には、細胞培養肉として牛ステーキやチキン、細胞培養シーフードではマグロ、エビ、サーモン等の食品開発が進行中で、各国の企業が熾烈(しれつ)な競争を繰り広げている。シンガポールではすでに細胞培養チキンが販売されており、他国でも数年以内に細胞農業食品を市場投入する段階に入っている企業が多い。

細胞農業食品が解決する五つの課題

 細胞農業食品は、伝統的な畜産業が抱える様々な課題解決に貢献しうるとして注目されている。ここでは主に、 (I)サステナビリティ、(II)思想信条、(III)公衆衛生、(IV)食文化の保存・多様化、そして、(V)食料安全保障の五つを紹介する。

サステナビリティ

 伝統的な畜産業と比べ、細胞農業で作る肉は環境負荷が低い。2011年に行われたオックスフォード大学とアムステルダム大学の共同研究によると、細胞培養肉は工場で生産されるため広大な農地は不要で、土地利用が99%削減される。また、牛の「ゲップ」などによるメタンガスの排出が削減されるため、温室効果ガス排出量も78~96%削減される。

 さらに、牛や豚等が食べる飼料の穀物を育てるのに必要な淡水の利用量も82~96%削減される。総エネルギー使用量も7~45%程度の削減が見込まれるとの数字が出ている。2021年2月にThe Good Food Instituteという国際NGOが出した『培養肉のライフサイクル・アセスメント』という報告書においても、最新のデータや技術を参照した上で同じような結果が出されている。

 なにより、同じ量の肉を作るために必要となる資源の効率性が、伝統的な肉と細胞培養肉とでは圧倒的に違う。三井物産戦略研究所によると(参照)、家畜を育てるのに必要な飼料などの総たんぱく質量と、最終的に食肉となった際に得られるたんぱく質量を比べた「たんぱく質変換効率」は、牛肉が3.8%、豚肉が8.5%、鶏肉は19.6%だ。細胞培養肉ではこれがいずれも70%で、生産効率は非常に高い。世界の人口増に伴う食料不足が危惧される中、この資源効率性の高さは無視できない。

 労働者の人権の側面でも細胞農業は貢献し得る。世界的にみると、農業や漁業は重労働で、監督も効きにくいため、強制労働が行われやすいハイリスク産業として挙げられることが多い。実際、米国通商代表部(USTR)は2021年5月、WTOに対して漁業における強制労働問題に対処すべきと提言した(参照)。細胞農業による肉・シーフード生産技術が定着すれば、人にとってもサステナブルな労働環境が提供されやすくなる。

思想信条

 細胞農業は、動物や植物から細胞の一部を取り出して育てる。動物を殺さずともその肉の生産が可能なため、「動物を屠殺している」という倫理的な側面が理由から肉の摂取を控えてきたベジタリアンやビーガンの需要も期待される。

 また、伝統的な肉の環境負荷を気にして肉を食べることをできるだけ減らす「フレキシタリアン」が、Z世代やミレニアル世代を中心に増加しているが、細胞農業食品はこのような若者にも魅力的に映るだろう。

 さらに、宗教上の理由で特定の肉を食べることを禁じられている人たちも、「細胞農業で生産された肉なら食べても良い」という解釈をする人が出て来ている。例えばユダヤ教では、細胞の元となった動物の摂取が禁じられていても、その細胞を使って培養した肉に関しては、「コーシャー」(適性)であり食べても良いだろうと判断するラビ(ユダヤ教の宗教指導者)も出始めている。

公衆衛生

 細胞培養肉は無菌状態の工場で生産されるため、通常の畜産業の肉処理工程等と比べて細菌感染を減らし、ほぼゼロにすることもできる。また、細胞農業生産過程が多く自動化されていることは、伝統的な畜産業に比べて人為的なミスが介入する機会が相対的に少ないという点で、異物混入の可能性も低下させる。

 現在、畜産では多頭の家畜に大量に抗生物質を投与しているが、これは人獣に共通して感染しかねない強力な耐性菌が発生するリスクがある。くわえて、集約型畜産の場合、耐性菌が発生すると感染が一気に拡大するので、最悪の場合、数百万頭の殺処分や人間への感染拡大等の恐れもある。その点、細胞農業は抗生物質を使わずに食品を生産できるため、こうした心配はほぼ生じない。

食文化の多様化・保存

 現在、私たちの食事には、外的な要因での制限されているものが少なくない。例えば、飼育や養殖が難しいものや、天然物で取れることが珍しいもの。希少部位で一頭から少量しか取れないものや、味はおいしいが骨が多く加工処理が困難なもの。新鮮であれば美味しいが、保存すると味が落ちる等の理由で流通しにくい食材などである。

 こういったものは、細胞農業技術が発展してコストダウンが進めば、誰でも手軽に食卓に並べられるようになり、食の多様性向上に貢献する。さらに、特定の栄養素を向上させた機能性のある食材の開発も可能と言われている。

 また、細胞農業の活用は食文化の保存にもつながりうる。例えば、環境変化や乱獲により絶滅の可能性があると警鐘が鳴らされているうなぎやマグロ。動物愛護の側面から販売禁止や輸入禁止といった規制が導入され始めているフォアグラやフカヒレ。現在は食べられているが、将来は食べられなくなるかもしれないがものが、細胞農業を使えば未来の世代にも食べる選択肢を維持することができる。

拡大米国のBlueNalu社による、細胞培養ブリの輪切り添えビスク。細胞培養シーフードへの関心も高まっており、同社は2021年1月に米国サンディエゴに工場を設立するなどの目的で66億円相当の資金調達に成功した。(写真はBlueNalu提供)

食料安全保障

 以上、細胞農業食品は様々な側面から期待されているが、その一方で、この技術が食料安全保障にも大きく寄与し得るポンテンシャルがあることについては、まだあまり注目されていない。

 食料安全保障(Food Security)について国連食糧農業機関(FAO)は、「あらゆる人々が、常に活動的で健康的な生活を送るための食生活のニーズや食事の好みを満たす、安全で栄養価の高い十分な食料を、物理的かつ経済的に入手できる状態」と定義している(参照)。そして、食料安保の4側面として、(1)入手可能性(Availability)、(2)経済的・物理的アクセス(Access)、(3)食料の利用(Utilization)、(4)長期にわたる安定性(Stability)を挙げている。

 食料や飼料を他国に依存している割合が高い場合、何かしらの理由で国際的なサプライチェーンの断絶が生じれば、食料の「入手可能性」が低下すると同時に、供給が減って価格が上がり「経済的アクセス」も悪化。くわえて、経済をテコに安全保障上の国益を追求する「エコノミック・ステイトクラフト」(参照)が多用されるようになってきていることから(参照)、意図的に輸出入の停止に踏み切る国家への懸念が高まっており、「長期にわたる安定性」も損なわれやすくなっている。

 だが、このような食料安全保障上のリスクは、食料を国内生産でまかなう割合を高められれば、低減させることが可能になる。細胞農業は食料安全保障の様々な側面に貢献しうる技術なのである。この点について、以下、詳しく述べる。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。