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A級戦犯の遺骨、「火葬場から…」~日本人による「奪還」語る別の文書

特集・戦犯遺骨の米軍秘密文書(中)

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

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 日米開戦から80年となるこの夏、戦争責任とナショナリズムについて深く考えさせられる貴重な米公文書に出会った。日本降伏後の1948年12月23日、米軍が日本の戦争指導者としてA級戦犯7人を死刑に処したその日のうちに火葬し、太平洋上空から散骨したという「報告書」。そして、そうした対応を現場に指示した「マッカーサー元帥の命令」による書簡だ。

 連合国軍最高司令官として日本の占領にあたっていたマッカーサーが抱いたであろう、敗戦国で勝者に戦犯として裁かれた刑死者が美化されぬようにという切迫感がにじむ。この文書の読み解きと、文書の発見によってA級戦犯の亡骸がどう扱われたかを初めて詳しく知った遺族の思いを、3回にわたり報告する。

 筆者が論座で2019年に連載した「ナショナリズム 日本とは何か」の番外編としてお読みいただければ幸いだ。

 

食い違うように見えて…

 連載の前回「戦犯の遺体、『日本に返さず遺骨は海へ』~神聖視を恐れたマッカーサー」に続き、A級戦犯の処刑と遺骨の話を続ける。米軍の報告書では「横浜の東、太平洋上空30マイル」でまかれたと記されているA級戦犯の遺骨。だが、それを火葬場から取り戻そうとした日本人がいた。

 過去の朝日新聞の記事によると、A級戦犯として終身刑になった小磯国昭・元首相の弁護人を務めた三文字正平氏と、火葬場長が、処刑3日後の1948年12月26日、骨捨て場に残った灰をひそかに集めた。遺灰は翌年、静岡・熱海にある興亜観音の住職に預けられたことになっている。

拡大弁護士の三文字正平氏=1976年。朝日新聞社

 当時の住職・伊丹忍礼氏が残した「興亜観音のいわれ―殉国七士の碑があるわけ―」という文書がある。「殉国七士」とはA級戦犯の刑死者7人のことだ。興亜観音はこの夏に熱海で起きた豪雨災害の被災地に近い。電話をかけてみると、大きな被害は免れたそうで、文書の確認取材に応じた。

 興亜観音によると、三文字氏は7人が絞首刑となる前に遺体が横浜の久保山火葬場に運ばれると知り、火葬場長らと遺骨の奪還を計画。米軍は当日、火葬がうまくいかないので火葬場長を呼んで再火葬させ、遺骨を慌ただしく持ち去る際、一部を「コンクリート穴」に捨てた。それを見た火葬場長は3日後の夜に三文字氏らと火葬場に忍び込み、「穴」から遺骨を集めたという。

 興亜観音は、7人の一人である松井石根・陸軍大将が1940年、37年に始まった日中戦争の双方の戦死者を弔うとして建立。後の太平洋戦争の戦死者や、刑死したA級戦犯やBC級戦犯も祀った。「米英は東京裁判において、日本を侵略者と烙印をおした。だが、勝てば官軍、負ければ賊軍であった」と当時の住職が語るこの文書を、数年前からサイトに載せている。

 ここで、火葬場での遺骨回収をめぐる米軍の報告書と、興亜観音の文書の食い違いに触れておかねばならない。注目すべきは、米軍の報告書には遺骨を日本側に渡さぬよう「微少なかけらも見過ごさぬよう特別な注意が払われた」とあるのに、三文字氏らが後で一部を取り戻せたという点だ。

 結論から言えば、双方の言い分は両立し、むしろ補い合うと筆者は考える。米軍は火葬場に遺骨を残さないよう気をつけたが、極秘、迅速を求められた困難な「作戦」ゆえに、漏れがあったのではないか。火葬がうまくいかずに焦り、火葬場長を呼んで再火葬させた後、遺骨の一部を捨てるところを見られたと考えれば、辻褄が合う。

拡大戦犯刑死者の遺体の扱いに関する米軍の文書(右)と、興亜観音の住職がA級戦犯の遺骨について述べた文書(左)

 フライアーソン少佐による報告書に、不自然な点が複数あることが傍証になりうる。連載の前回で触れたように、報告書には、7人の遺体を護送する車列が巣鴨拘置所を出てから、7つの棺が全て炉に収まるまで、節目節目で時刻が記されている。ところがそれ以降は逆に、つまり火葬終了、遺骨回収、火葬場出発、滑走路到着、連絡機離陸、そして迅速を旨とする「作戦」の最終目標である、連絡機からの散骨に至るまで、時刻の記述が全くない。

 これも、再火葬することになってその後の散骨までの段取りが予定より遅れたため時刻を記さなかった、と考えれば辻褄が合う。報告書についてさらに言えば、カメラマンの件を除いて「異常な出来事はなかった」のは、実は火葬場に着くまでの説明に限られている。以降に言及がないのは、再火葬による火葬場長の参加や予定からの遅れにより、極秘、迅速を旨とする「作戦」に支障が出たからではないか。

 誤解を避けるために言えば、筆者には、少佐らが忠実に任務を果たそうとしたことを否定する意図は全くない。火葬場で米軍が遺骨を集めた具体的な描写については二つの文書に明白な食い違いもあるが、そこを考える際に、米軍の報告書が少佐の直接の証言であるのに対し、その場にいなかった当時の興亜観音の住職が述べる内容は間接情報によっている点は見過ごせない。

 筆者が言いたいのは、少佐の報告書と興亜観音の文書にそうした食い違いがあっても、重ね合わせれば、この切迫した米軍の「作戦」の実態が立体的に浮かぶのではないかということだ。米軍の報告書の文章の流れからすると、「遺骨の微少なかけらも見過ごさぬよう特別な注意が払われた」対象は「炉」だったとも読める。すると、そばの「穴」に捨てられた一部を三文字氏らが取り戻せたという説明とも話がつながってくるのだ。


筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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