[5] 歌い継がれるパルチザンの魂 それは恋の歌~「さらば恋人よ」イタリア
伊藤千尋 国際ジャーナリスト

イタリアの三色旗とパルチザンの銅像(savo1974 / shutterstock.com)
イタリアの市民は独裁と戦い、命をかけて未来を作り出した
イタリア人といえば恋とワインにうつつを抜かしているように日本では思われがちだが、とんでもない誤解だ。第2次大戦で日本の国民は終戦の日まで軍国主義に従ったが、イタリアの市民は戦争中から独裁に反旗を翻し、戦後の国造りに動き出した。彼らは戦中から早くも「戦後」を開始したのだ。終戦でようやく戦後が始まった日本とは大きな隔たりを感じる。
日本人は言いたいことも言わずに自粛し、権力者に忖度して行動を控えることが多い。イタリア人にこんなことはありえない。一人一人が自立して考え自分の意志を貫き、いざという時には連帯して果敢に行動するのが彼らの国民性だ。
第2次大戦のイタリアを支配していたのは、ファシズムの生みの親で、クーデターによって権力を奪い一党独裁体制を20年近くも維持していたムッソリーニだ。

イタリアのベニート・ムッソリーニ首相=1941年4月、ローマのベネチア宮殿

イタリア陸軍部隊を閲兵するベニート・ムッソリーニ首相=1940年
戦争のさなか、このまま独裁者の言うなりでいると国が亡びると考えた政治家や軍人が1943年、ムッソリーニを権力の座から引きずり下ろした。あわてたナチスの軍隊がイタリアを占領すると、普通の市民がパルチザンを組織して戦い、ナチスを追い払って自力で国土を解放した。日本人は終戦で呆然自失となり戦後は占領軍に身をゆだねたが、彼らは命をかけて未来を自分たちの手で作りだしたのだ。ふだんはへらへらしているようだが、いざとなれば強い。
死を覚悟しパルチザンを選ぶ若者 恋人との悲痛な別れ
パルチザンとは民衆の自発的な武装組織である。非正規の軍隊をゲリラと言うのはスペイン語の言い方で、イタリアではパルチザンと呼ぶ。侵略者に対する抵抗組織、レジスタンス運動の意味合いが強い。

パルチザンを追悼し、記憶する施設がイタリアン全土にある。モデナでは第2次大戦中に犠牲となったパルチザンの写真と名前が刻まれている(Bird022 / Shutterstock.com)
侵入したナチスの軍隊と戦おうと決心した若者が、死を覚悟でパルチザンに加わろうと、自らの意志で山中の基地を目指して出発する。そのさいに恋人に別れを告げる歌が「さらば恋人よ(ベラ・チャオ)」だ。
ある朝、起きてみたらナチスの軍隊が自分たちの町を占領していた。黙って従いたくない。彼らと戦おう。パルチザンの同志よ、私をいっしょに山の基地に連れて行ってくれ。戦いに身を置けば、もう生きて帰れるとは思えない。恋人よ、これが最後の別れだ。
こういう内容である。
山の中を拠点とするパルチザンは食べ物もろくにない。寝場所も定まらない過酷な生活が待ち受けている。しかも生きて帰れる保証はない。それを覚悟で困難な人生を選ぶ若者の健気な気持ちが伝わってくる。
ベラは「美しきもの」で、ここでは恋人を指す。そういえば、この連載で取り上げた「アムール河の波」の作曲家キュッスの恋の相手の名がベラだった。チャオは別れの挨拶言葉だ。「さらばさらば」という繰り返しは、イタリア語の歌詞では「ベラ・チャオ ベラ・チャオ」だ。繰り返して告げるこの部分に、別れたくはないが行かねばならないと考える若者の悲痛な思いがにじみ出る。

イタリア北部ブレシアにある第2次大戦中のレジスタンス運動のモニュメント(Baroni Luca Enrico / Shutterstock.com)
日本で広まっているのは東大音感合唱研究会の訳による歌詞で、その内容は原作にかなり忠実だ。歌詞の内容はこう続く。
「私がパルチザンとして戦死したら、死体を山に埋めてくれ。そこには美しい花が咲くだろう。自由のために死んでいったパルチザンの花が」
悲愴さを強く感じる歌だが、事実、パルチザンに志願した兵士の多くが山中の戦闘で亡くなった。ナチスに捕まって銃殺された人も多い。
本連載「世界の歌を探検する~民族固有の魂を求めて」【欧州編】は今回で終わります。近く、【米国編】を始めます。