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【14】三菱電機と菅政権 依然として日本にはびこる集団主義

主体性の欠如が支える、その腐敗構造

塩原俊彦 高知大学准教授

 1996年3月に刊行された、マサオ・ミヨシ著『オフ・センター:日米摩擦の権力・文化構造』(平凡社)という本がある。当時、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授だった彼は、日本人の精神構造について、つぎのように指摘している(175ページ)。

 「江戸時代の鎖国が、西洋の艦隊の侵入によって打ち砕かれて以来、日本人は西洋列強の進んだ科学技術と膨大な富とを恐怖してきた。西洋の文明を学ぶにつれて、日本人は同じようにその哲学や文学、音楽や美術に畏敬の念を抱いた。西洋は中心であるべきであり規準であるべきだった。非西洋は末端で辺縁であるべきだった。文明開化の初期の主導者は日本人に対してアジアの列から脱し、西洋の仲間入りするよう説き勧めた。これ以降日本人は、この段階の他の植民地化された非西洋人のほとんどと同様に、自らの不安感と取り組まなければならなかった。その国民自身の目には、日本は西洋の優れた力と文化に圧倒された小国と映っていた。日本人は西洋に「追いつき」、単線的進歩の尺度の上でより「進んだ」文化にならって自らを形成しようとしていた。」

 明治維新後、脱亜入欧が唱えられ、西洋崇拝が西洋に対する服従を引き起こした。これを支えたのが、上意下達の日本の近代官僚制であった。結果として、儒教といった思想・宗教が支配的でなかった日本は近代化を遂げ、世界の「一等国」(わかりやすく言えば、植民地を数々もつ国)に仲間入りできた。それを誇りにする一方で、「西洋の植民地に対する露骨な蔑視」を大多数の日本人は心に深く刻み込んだのである。

 このミーム(文化遺伝子)はいまでも多くの人々に受け継がれている。

「日本の集団的非個人」=集団主義

大企業の入社式=1981年4月1日

 この本のなかで、戦後の日本の異例の経済的成功をめぐって、つぎのように記述している(192~193ページ)。

 「とりわけ、日本の膨大な経済力は、全世界共同の拡張主義と、各個人の情け容赦もない消費化とともに行使されるのである。体系的に脱歴史化された日本の集団的非個人は、西洋もそれ以外も含めて全世界の国民や国家を、自己を空虚にし、理想もなく、目的も喪失した生産と消費、そして白日夢の反理想(ディストピア)へと導きつつあるように思える。」

 この「日本の集団的非個人」は、集団主義のなかで「主体性」の欠如として、戦前・戦中・戦後日本の知識人の批判対象となっていた。ミヨシは、「戦前においても、戦中、戦後においても、日本のほとんどの知識人は、〈主体性〉というのは自分たちの顕著な特質ではない、そして〈主体性〉の十全な発達が、普遍的な近代的価値として望ましいことであるということで合意しているように思える」と書いている。さらに、「個性における個別性、行動における自律、思想と表現における自由は、近代日本社会の特徴ではないということに疑問はほとんどないように思える」とも指摘している。

 つまり、「社会的・心理的に、集団主義は依然としてはびこっている」と、ミヨシは断言している。

 この集団主義が「いい方向」に作用すれば、経済的成功をもたすことも可能だ。だが、この本の刊行後、日本が経験した1990年代以降の「失われた30年?」を振り返ると、もはやこのままでは「集団自殺」よろしく沈没するしかない運命が待ち受けているだけなのかもしれない。集団主義はいまでもはびこっており、それがニッポン不全という病弊をもたらす一因となっているのだ。

「三菱電機=ニッポン」?

 この連載で何度も指摘したように、国家と企業は同調性をもっている(「ニッポン不全 【10】国の遅れは企業の遅れ」を参照)。そう考えると、鉄道車両向け空調機器の製造過程で、長年にわたって出荷前に必要な検査を怠ったり架空のデータを記入したりしていた三菱電機をみれば、日本の集団主義が「悪い方向」に長年にわたって継続してきたことがよくわかるのではないか。

 2021年6月29日、独自ネタとして、朝日新聞デジタルは「三菱電機が性能検査で偽装 鉄道用空調、30年以上か」という記事を報道した。「三菱電機が、鉄道車両用の空調設備を出荷する際、架空のデータを用いて検査を適正に実施したように装っていたことがわかった」という

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