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自民党に連立拡大論が浮上 衆院選後の政権の形は?~オール大連立もありか

自民党一党独裁に終止符を打った1993年政変の当事者・武村正義氏の経験と教訓

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

 東京都議選が見込み違いの不振に終わったことで尻に火が付いたか、自民党内でにわかに「連立拡大論」が浮上した。秋までにある衆院選で、与党である自公の議席が過半数を割った場合、小池百合子都知事による「小池新党」、あるいは日本維新の会や国民民主党を新たに連立に組み込み、政権の延命を図るという構想である。

 ふと、今から30年近く前の1993年衆院選後の政治状況を思い出した。7回前の都議選の直後にあった衆院選で、選挙前に分裂した自民党は過半数に戻らず、野党第一党の社会党も半減の惨敗を喫した。与野党伯仲の星雲状態のなか、自民党中心の連立政権が誕生するのか、共産党を除く非自民の連立政権なのか、微妙な情勢だった。

国会議事堂=2021年7月17日、東京都千代田区永田町、朝日新聞社ヘリから

別な道もありえた1993年の“連立劇”

 結果的には、細川護煕氏が率いる日本新党と武村正義氏らの新党さきがけがキャスティングボードを握り、自民党を離党して新生党を立ち上げた小沢一郎氏がこの両党を引き込んで、非自民8党派連立による細川政権が樹立された。

 政権交代が爆発的な世論の支持を生んだことから、細川政権の誕生は衆院選から一直線に進んだと思われがちだが、実際は自民党中心の連立政権が生まれる別の道もないわけではなかった。それならこう疑問に思う。なぜ自民党は失敗したのか。政党間協議で何が足りず、逆に非自民が成功した勝因は何か。さらに、非自民連立政権が短命に終わったことを思えば、政権交代時に何が非自民側に足りなかったのか。それを知ることは、再び連立政権協議が焦点となる可能性のある今日にも有益な教訓となろう。

 そうした疑問について尋ねるため、“連立劇”の渦中にあった武村氏に話を聞いた。インタビューは東京五輪の開幕を2日後に控えた7月23日、東京・築地の朝日新聞本社でおこなった。今年87歳。新型コロナのワクチン接種をすませた武村氏にとって久しぶりの上京だった。梅雨明け直後の東京は、夏の太陽がじりじりと照りつける青天。思えば、細川連立政権に向けて政治が激動した1993年は梅雨がなかなか明けず(結局、梅雨明け宣言はなかった)、衆院選後もどんよりした天気が続いていた。永田町もまた、すっきりとしない状況にあった。

武村正義さん=2021年7月21日、東京・築地(撮影・吉田貴文)

武村正義(たけむら まさよし)
1934年生まれ、87歳。自治官僚から滋賀県八日市市長を経て、滋賀県知事を3期、衆院議員4期。自民党では鳩山由紀夫、石破茂両氏らと「ユートピア研究会」で活動、1993年、新党さきがけを結成し代表に。細川護煕非自民連立政権で官房長官、翌年誕生した村山富市自社さ連立政権で蔵相。2001年に政界引退。「ムーミンパパ」と呼ばれた。

非自民の連立政権という発想はなかった

――1993年7月18日の衆院選の結果を振り返ってみます。自民党を離党して旗揚げしたばかりの武村さんの新党さきがけは13議席を獲得。さきがけと近いうちに合併すると見られていた細川護熙さんの日本新党がは35議席で、両党を合わせて48議席でした。自民党は選挙前から1議席増の223議席。野党は、社会党が大きく減らして70議席、新生党が55議席、公明党が51議席、民主党が15議席、社会民主連合が4議席の計195議席。このほか、共産党が15議席、無所属が30議席でした。(参照

 自民党は過半数(256議席)に遠く及ばず、連立を組まないと、政権はとれない状況。野党も、他の勢力の助けがないと政権には手が届かない。焦点となったのがさきがけ・日本新党グループでした。武村さんとしては、選挙直後、どんな見通しを持っていましたか。自民党中心の連立政権にになるのか。それとも、非自民勢力とどこかが連携する野党の連立政権なのか。

武村 衆院選で自民党が半数を割る結果が出た直後は、ストレートな議論はしていませんでしたが、私も細川さんも、当然のように、連立政権を考えるなら、自民党と組むかどうかがすべてだ、という頭でしたよ。野党と組む非自民の連立という発想自体がなかったんじゃないかな。

小沢さんの非自民連立構想に目が覚めて

武村 ところが、これは私が評価するところなんだが、小沢一郎さんがオール非自民で細川さんを首相に担ぐと言い出した。私もそこで目が覚めたわけです。ただ、初めて細川さんからその話を聞いた時は、思わず私は反発して、ええと、何と言ったんだっけな……。

――『武村正義回顧録』(御厨貴、牧原出編 岩波書店)によると、「それは謀略じゃないの」と言った、とあります。

武村 そうそう、謀略。そうしたら細川さんは、椅子から半分立ち上がって「そんなことないです」「とにかく小沢さんに会って下さい」と言った。そこで、その日の夕方、全日空ホテルまで小沢さんに会いに行きました。話を聞いて、謀略と思ったのは間違いだと分かり、私も小沢さんの言う幅広い連立に頭を切り替えて行ったのが事実です。小沢さんは、私が細川さんが首相になることに反対していると思ったらしく、「それなら首相は武村さんでもいいんだ」と言いましたがね。

編集部注:武村氏が細川氏から「細川擁立論」を聞き、小沢氏に会いに行ったのは衆院選から4日後の7月22日だった。

――興味深い調査結果があります。衆院選直後に実施した朝日新聞の世論調査ですが、どういう連立の形を望むか聞く質問に対して、「自民党中心の連立」を望む声が56%と半数を超え、「自民党を除く野党中心の連立」は33%しかありませんでした。

武村 そうですか。自民党を連立政権から外すという発想は、主流ではなかったんですね。小沢さんが火を付けた非自民連立という考え方は、今から思えば自然に思えるけれども……。

――小沢さんに会って「細川首相」を確認した時、武村さんは「1週間待ってくれ」と言っていました。それはなぜですか。

武村 謀略という考えは撤回しましたが、盟友だと思っていた細川さんを首相に担ぐというのは、価値のある大きなことだという思いがあり、関係者とも相談、議論をしたうえで決めたいという気持ちでした。1週間には特段の意味があったわけではありませんが。自民党と組むというカードを捨てることの重さも意識したんだと思います。自民党と相談しようとは思いませんでしたが。自分の頭を切り替えるために時間が欲しかったのでしょうね。

連立で合意した非自民8党派。会談に先立ちポーズをとる各党の首脳。右から2人目が武村正義氏=1993年7月29日、東京・永田町のホテルで

まとまりを欠き、反応が鈍かった自民党

――小沢さんから細川首相擁立案を聞いた後、新党さきがけの田中秀征さんの提案で「改革特命政権」という旗印をつくります。これが帰趨を決めたということですか。

編集部注:新党さきがけと日本新党は7月23日、「政治改革政権の提唱」を発表した。統一会派「さきがけ・日本新党」の当面の最優先の行動目的を「本年中の政治改革の実現」とし、「政治改革を断行する政権」(政治改革特命政権)の樹立を提唱。そのための条件を列挙し、条件を受け入れる側と連立をするとした。

武村 自民党が衆院選の結果について素直に反応、反省しなかったのです。過半数を割ったという深刻な事実に対して鈍感で、党全体でまとまりを欠き、中心になる人物がいなかった。塩川正十郎さんらが私たちとの交渉の窓口だったが、(塩川さんが)自民党を代表する実力者かと言えばそうではない。

編集部注:塩川正十郎氏は当時、自民党の政治改革推進本部長代理。武村氏は自民党を離党する前、同本部の事務局長だった。二人とも同じ派閥(清和会)にいた。

――連立に向けた政党間協議は、何より交渉責任者の力量がカギを握ります。今回も、自民党がもし過半数割れしたら、二階俊博幹事長がその責任者足りうるかが焦点になるでしょう。1993年の自民党はそこに問題があったのですか。

武村 私は自民党時代、政治改革を求める若手の議員とユートピア研究会をつくっていましたが、そこには三塚派(清和会)の議員が多かった。それもあって塩川さんら三塚派の議員が私たちとの交渉に当たったと思うが、それはあくまで人脈で、党全体を代表するものではない。私と細川さんは、自民党にも政治改革特命政権の条件を示しましたが、確たる反応はありませんでした。条件というより、我々との連立そのものが自民党の頭にないと思うしかありませんでした。

 それにしても、どうして自民党はあんなに鈍かったのだろうね。その間隙(かんげき)を縫って、小沢さんが大胆な提案をしてきたわけでね。反応していてくれば、自民党との連立に進んだと思います。でも、私が後藤田正晴さんを担いで日本新党、さきがけと共に連立政権を組む案を持ちかけても、自民党が真剣に考えてくれると思えなかった。

編集部注:自民党は衆院選敗北の責任をとって宮澤喜一総裁が辞任。新総裁選びに入った。7月25日に渡辺美智雄氏と橋本龍太郎氏が名乗りを挙げ、後藤田正晴氏が立候補を否定。26日には河野洋平氏の名前が浮上し、30日に総裁に就任した。この間、非自民6党派は26日に新党さきがけ・日本新党「政治改革政権の提唱」を受諾。28日には武村氏と細川氏が自民党本部まで足を運び、「残念ながら時間切れです。今回は一緒にできません」と“最後通牒”をしている。

「後藤田首相」が幻に終わったワケ

――そこで以前からお尋ねしたかったのですが、後藤田さんはご自身の首相擁立論に対して武村さんにはどう言っていたのですか。全くの断りだったのか、検討する余地はあったのか。

武村正義さん=2021年7月21日、東京・築地(撮影・吉田貴文)
武村 後藤田さんは旧内務省と自治省の先輩後輩、自民党時代には政治改革を進めるうえで親分と子分の関係で、私にとっては身近な存在でした。選挙後すぐ、後藤田首相だと思い付いて、実際に「受けて下さい」と頼みに行ったこともあります。ぴしゃっと断られましたけど。武村君が思い付いて言っているぐらいの話には軽々には乗らないぞ、ということだったと思います。自民党が公式に特命政権構想に賛成して、過半数を確保したうえで、私が後藤田さんのところに行ったら、もう少しは真剣に検討してくれたかもしれませんね。

――結局、「後藤田首班」による自民・日本新党・さきがけ連立政権が幻に終わったのは、政党間協議や首班問題において、自民党の側に意思や努力が足りなかった結果なのですね。

武村 そうです。

――ここは重要な点ですね。ところで、衆院選が終わる前に、自民党と野党から、日本新党と新党さきがけがキャスティングボードを握る可能性があるとみて、連立政権協議の打診はありましたか。

武村 それはなかったですね。我々も鈍感だったが、選挙後に連立政権が浮上するだろうとの認識や提起は、新聞にも世論にも薄かったのではありませんか。

――私自身(曽我)の反省でも、確かにあの選挙を、自民党がどれだけお灸を据えられるかといった昭和型の古い発想で見ていました。

武村 自民党の側にもそうした危機感が乏しく、私たちさきがけ・日本新党も、自分たちがキャスティングボートを握っているという認識が薄かった。ところが、小沢さんだけは鋭かった。そういうことかもしれませんね。

瞬間的にバタバタとできた細川政権

――非自民の連立政権は、細川政権が政治改革を実現した後、国民福祉税の挫折をはじめ混乱や内部対立が続いて7カ月余で幕をおろし、羽田孜内閣も2カ月余で終わり、結局、1年も持たない短期間で終わりました。武村さん自身、細川政権では官房長官として中枢を占めましたが、細川内閣が発足した時点で、政権担当能力への不安はありませんでしたか。

武村 そもそも「政権担当能力論」なんてものは、私にも細川さんにも頭の中になかったですね。私たちの政権入りや細川首相誕生自体が、瞬間的にバタバタと起きたものでしたから。解散・総選挙と新党結成、政界再編が同時並行で起きた後、細川首相論が急浮上した。詳しく聞いてはいませんが、細川さんも期待していたことではなかったと思いますよ。意外だったのではありませんか。

――さきがけにいた園田博之さんが亡くなる前に当時の話を聞いた時、政権担当能力への不安を思うと政権に入るべきでなかったと述懐されていました。

武村 さきがけは細川さん以上に、政権のど真ん中に入るという発想は持てなかったです。経験不足もありますが、さきがけは日本新党と比べて議員の数が少ない政治集団ですから。党としては園田さんの考えが主流でした。

衆議院本会議で首相に指名され、立ち上がって議員の祝福にこたえる細川護煕・日本新党代表。左は武村正義・新党さきがけ代表 =1993年8月6日

首長の経験は中央で生かせるか

――細川さんは熊本県で、武村さんは滋賀県で、ともに長く知事をつとめられています。首長の経験を中央でも生かせるとの意識はありましたか。

武村正義さん=2021年7月21日、東京・築地(撮影・吉田貴文)
武村 当時、地方の首長の中にも、細川さんや私に限らず、、神奈川の長洲一二知事や大分の平松守彦知事ら国政に関心の高い知事が7人前後いました。全国知事会の際に、私から声をかけて7人で会い、国政を考える知事の回をつくろうと提案し、賛同をいただきました、動きだそうとした時点で終わってしまったんだけど……。地方自治の現場にも、そういう動き、そういう動きを支持する雰囲気があったんですね。

 アメリカの政治に多少、影響されていたのかもしれません。カーター氏やレーガン氏といった州知事を経験した人が大統領になるんですね。日本には知事が首相になる発想はなかったんだけど、アメリカではそういう例があったので、それに触発されたというか、刺激をうけて、国政志向の知事が集まって、政界に新しい動きを起こそうという発想が出てきた。

――細川首相のカウンターになったクリントンも州知事の経験者ですね。ご自身の知事の経験で国政に生かされたことはありますか。

武村 私は滋賀県知事として12年間、県政を担いましたが、その間、複数の政党から支持をいただきました。共産党も最後まで与党でしたし、自民党も途中から加わってオール与党になりましたがね。そうした“欲深い”というのか(笑)、幅広い“連立”の枠組みを県政時代に体験していたことが、細川連立政権を受け入れることにつながったかもしれません。

――橋下徹・元大阪府知事や小池百合子東京都知事、さらにコロナ禍への対応でも吉村洋文大阪府知事ら全国の首長の手腕が注目を集めています。ただ、多くは保守系で、野党系はなかなか人材が見当たらない。

武村 いつの時代も、知事から国政への道はあって当然だと思います。

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