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[1] 冷戦下、断絶と疎外の社会に変革を告げた~「サウンド・オブ・サイレンス」

伊藤千尋 国際ジャーナリスト

ケネディ大統領の暗殺事件と、実行犯とされるリー・ハーヴェイ・オズワルドへの銃撃を伝えるLIFE誌や新聞(Teresa Otto / Shutterstock.com)
 朝日新聞社のロサンゼルス支局長として米国に赴任したのは2001年9月1日付けだった。その10日後に9・11のテロが起きた。一挙に米国は愛国社会となり、テレビはほぼ1日中「ゴッド・ブレス・アメリカ(神よアメリカを祝福したまえ)」という愛国歌を流し続けた。この国の人々はよく歌うし、何かにつけて歌で表現する。

 超大国としてこの国の政治がそのまま世界に影響を及ぼすダイナミックさを背景に、グローバリズムの「共通言語」である英語という伝わりやすさもあって、彼らの歌は世界に広まった。その中には日本によく知られている歌も多い。

 歴史の浅いこの国だが、世界から集まった民族によって、世界の音楽文化の集積地のような様相を示す。建国以来の歴史を歌で語ることもできる。世界の民族の固有の魂と言える歌を紹介するシリーズとして先月は【欧州編】を5回、お送りした。その続編として今回、【米国編】をお届けしたい。

7月の連載「世界の歌を探検する~民族固有の魂を求めて」【欧州編】はこちら

ケネディ暗殺 世界に衝撃

暗殺の数時間前、米テキサス州フォートワースで演説するケネディ大統領。ケネディ氏の在任中に大統領が「核のボタン」を常に持ち歩くことが制度化された=1963年11月22日
 オープンカーでにこやかにほほ笑む若き大統領、背伸びして手を振る沿道の人々がいる。一方で、政治にまるで関心がなく芝生に寝そべって日向ぼっこする若者もいる。車列に気づいた彼らが顔を上げ、近づく車に目をやった。3発の銃声がしたのはそのときだ。

 43歳でアメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディは、就任から1000日余りで暗殺された。アメリカ南部テキサス州のダラス。1963年11月22日、金曜日の正午過ぎだった。

 世界が驚いた。この日、日米を結ぶテレビの衛星生中継が成功し、アメリカからもたらされた日本時間23日早朝の最初のニュースがケネディ暗殺だ。当時、中学2年生だった私は、母親にたたき起こされてテレビ画面を食い入るように見つめた。

 地球の反対側の日本の中学生でさえ驚いたのだ。アメリカの若者が受けた衝撃は強かった。当時、ケネディはアメリカの輝かしい未来の象徴として、若者たちの圧倒的な支持を得ていた。夢は一瞬にして消えた。

ケネディ米大統領暗殺の速報に見入る人たち=1963年11月23日、東京・有楽町の朝日新聞東京本社
ケネディ大統領暗殺を受けて米国大使館が開いた弔祭式に、天皇、皇后両陛下の名代として参列した皇太子ご夫妻(当時)。左はライシャワー駐日米大使=1963年11月26日、東京・四谷の聖イグナチオ教会

ショックと向き合い曲作りに没頭したサイモン

 ショックを受けた一人がポール・サイモンだ。この年の2月に英文学を学んだニューヨークの大学を卒業し、音楽出版社で働きながら夜はニューヨークの下町でギターを演奏した。ヨーロッパをさまよう旅から帰国したばかりの22歳だった。

 暗いニュースに世の中が沈む中、彼はギターを手に作曲を始めた。それが「サウンド・オブ・サイレンス」だ。彼の伝記『Paul Simon~The Definitive Biography』(2002年)は「ポール・サイモンはみんなと同じようにケネディの暗殺に影響された。みんなが喪に服していたとき、彼は『サウンド・オブ・サイレンス』を作り始めた」と書く。

ポール・サイモン(右)とアート・ガーファンクル=「SIMON & GARFUNKEL」公式ウェブサイトから
 「この歌でポールは、すべての人々が眠りについている時に、さびれた街角を一人さまよう人を描いた。輝くネオンは商業主義すなわち本質的に浅はかな社会を表す。コミュニケーションが途絶えた状況を示すのに、癌というタブーのような言葉を入れた。いつもの彼の歌は2分半ほどだが、この歌は3分5秒と長い。歌が完成したのは翌年になってからで、彼がいかにこの歌と真摯に向き合っていたかを示す」とも。

 彼が歌を作っているところを友人が見ている。「ポールは長椅子の端に足を置いていた。彼とアーティー(アート・ガーファンクル)はコードを付けようとしていた。ポールは詞を思いついては曲に乗せたり省いたりしていた。考え出した歌詞をノートに書きつける作業が夜通し、朝の7時まで続いた」。

「サウンド・オブ・サイレンス」のジャケットの一部

難解で哲学的な詞「幻影は沈黙の音とともに」

 こうして完成したのは、使われた言葉は平易だが、言わんとすることは難解で哲学的な歌詞である。

サイモン&ガーファンクル=「SIMON & GARFUNKEL」公式ウェブサイトから
 ともあれ訳してみよう。

やあ暗闇よ、昔ながらの友よ
僕は君と話そうと思って、またやってきたんだ
それは、ひそかに忍び寄ってきた幻影を見たから
僕が眠っている間に、その種がまかれたんだ
その幻影は、僕の脳にしっかりと根づいて、
今も頭に残っている
沈黙の音とともに

 続く歌詞には、人々は「話さずに語る」とか「聴かずに聞く」とか「歌われない歌を書く」などの言葉によって疎外感に満ちた社会が描かれる。話しても通じない、言葉のコミュニケーションがとれない、歌を作っても共有されないもどかしさを書き連ねたのだ。

 最後は「予言者の言葉は地下鉄の壁に、安アパートのホールに書かれており、沈黙の音の中でささやかれるのだ」で終わる。

 いったい何を言いたいのだろう。

暗殺・公民権運動―「断絶」と「疎外」の時代

 『サイモン&ガーファンクル全曲解説』(アルテスパブリッシング、2009年)で著者の佐藤実氏は「世界をゆるがしたあの事件(注・ケネディ暗殺)は、ポールにとってあらゆる意味での『断絶』と『疎外』の象徴と映り、そのことは<サウンド・オブ・サイレンス>の詞のなかに暗喩として埋めこまれているのではないか」と書く。

 そして「『沈黙の音』はまるで、ダラスの街の沿道を埋めた大観衆によってかき消された狙撃の“音なき音”のようだと私は連想したのである。とくに1番の歌詞などは『沈黙の音』と『かすかな銃声』がよく符合する」と分析した。

 背景にあるのはケネディ暗殺事件だけではない。当時、黒人の権利を求める公民権運動が高まり、その反動で白人の人種差別主義者が黒人や彼らに同調する白人を虐殺する事件が相次いだ。サイモン自身、その悲劇を「私の兄弟」という曲に描いている。

暗殺前年、冷戦下でソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚し、ミサイル撤去をソ連に迫るため、カリブ海でキューバの海上封鎖を実施することを全米に向けてテレビ演説するケネディ大統領。米ソが対決寸前まで至り、世界中を核戦争の瀬戸際の恐怖に陥れた=1962年10月22日

ビッグバン直前のエネルギーを秘めた沈黙

 さらにもう一つ。サイモンはこの歌を書きだす5か月前に一人でヨーロッパを貧乏旅行した。最終的に落ち着いたのはフランスのパリだ。地下鉄の車両の中でギターを弾いて歌い、セーヌ川に架かる橋ポンヌフの下、コンクリートの堤防で野宿した。

来日したジャン・ポール・サルトル氏とシモーヌ・ド・ボーボアール氏。訪れた東京国立博物館で埴輪をみつめる様子=1966年9月21日
 つまり当時はやりのヒッピーだったのだ。そのころのパリから世界に広まったのが、サルトルらの実存主義だ。「沈黙の音」に実存主義の匂いを感じないだろうか。

 私がこの歌で連想するのは、ビッグバン直前の暗黒の宇宙だ。これからどうなるかわからないちっぽけな存在だが、契機を得て一挙に爆発し、無限大の空間に膨張する。そのような激しいエネルギーを秘めた不気味なほどの沈黙の世界。一見ネガティブだが、暗闇の向こうに開放を求める意思を感じる。

 歌が完成したのは1964年2月19日だ。取りかかってから3か月もかかっている。書いては消し、消しては書き…を繰り返したというから、相当悩んだあげくの作品だ。他の11曲とともに3月、レコーディングにこぎつけた。「水曜の朝、午前3時」というタイトルのデビュー・アルバムだ。ここから、サイモン&ガーファンクルの名によるデュオの活動をスタートさせた。

「水曜の朝、午前3時」を発表したころのサイモン&ガーファンクル=「SIMON & GARFUNKEL」公式ウェブサイトから

映画『卒業』の挿入曲で青春の苦悩を象徴

 この歌は3年後、映画で脚光を浴びた。ダスティン・ホフマンが主演した映画『卒業』の挿入曲となったのだ。

映画『卒業』のサウンドトラックアルバムのジャケットの一部
 話を持ち掛けたのはこの映画のマイク・ニコルズ監督だ。当時のアメリカはベトナム戦争の行き詰まりの中、価値観の変化や社会の変革が求められた。ニコルズ監督はサイモンの歌こそ、この映画にぴったりだと考えた。

 ところが、サイモンは乗り気でなかった。新曲を書き下ろす予定が遅れに遅れ、用意できたのは「ミセス・ロビンソン」だけだ。監督はサイモンの過去の作品から選んだ。

 中でもぴったりとはまったのが「サウンド・オブ・サイレンス」だ。主人公が抱える青春の不安や苦悩の心をそのまま表現したように感じられた。この映画のために作られた曲ではないかと思えるほどの効果を発揮した。

揺れ動く世界で 過去と価値観と決別する新時代を予感

米国はベトナムに50万人近い兵員を送りながら戦局は泥沼化の一方。1967年夏に頻発した黒人暴動も大国の病根をさらけだした。政策不信から反戦運動が急激に拡大。カリフォルニア大学は学生運動のメッカといわれ、反戦集会に連日参加者がひしめいた。自治会やセクトの主導ではない。学生たちは将来徴兵され戦場に送られる可能性があり、イデオロギーが先行しがちな日本とは別の真剣さがある。集会では徴兵拒否の意思表示として徴兵カードを焼く光景がしばしば見られた=1967年12月、カリフォルニア大
米空母インデペンデンスで開かれた全国州知事会議で、ジョンソン大統領のベトナム政策支持決議が不採択となった。採択には出席者の4分の3の賛成が必要だったが、賛成は26票にとどまり、18人の知事が反対した。米国内のベトナム戦争批判は、若者だけのものではなくなった=1967年10月20日

 映画の公開は1967年12月だ。そのころ世界的にベトナム反戦運動が高まり徴兵拒否の動きが顕著になった。翌68年4月にはキング牧師が暗殺され、黒人の基本的人権を要求する公民権運動の声が絶頂に達する。そして5月にはパリで学生や労働者による五月革命が幕を開けた。6月にはケネディの弟のロバート・ケネディが暗殺された。

 世界が騒然とする中、6月に日本でこの映画が封切られた。大学に入学したばかりの私は、これを観て大きな衝撃を受けた。映画の最後で主人公の若者は結婚式の真最中の花嫁を教会からさらう。まさに過去の価値観と決別する新しい時代の到来を感じさせた。

米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する学生たちに一般の人々も加わり、警官隊と衝突した。警官隊は放水で進行を阻んだ=1968年1月17日、長崎県佐世保市
それまでの最大規模となったベトナム反戦デモ。東京・銀座の八重洲通りいっぱいに広がった=1970年6月23日、東京都中央区銀座1丁目

 映画の封切りから40年を記念するDVDが2007年に出た。その中でマイク・ニコルズ監督は、映画のテーマを「狂気を通じて自分を救う男の子」と考えていたと語っている。あらためて映画に惹かれて、撮影の現場を訪れたいと思った。

 主人公が結婚式の場から花嫁を奪うシーンに使われた教会を訪れたのは、この年の12月だ。

40年後の教会を訪ねた 米社会での定着を見る

 米国の西海岸の中心地ロサンゼルスの中心部から車で東へ30分の郊外にあるラバーン・ユナイテッド・メソジスト教会。緑の芝生の上にチーズケーキを思わせる、音楽堂のような雰囲気の白亜の建物があった。日曜で定例のミサの最中だったが、礼拝を執り行う牧師は女性のエイミー・ヨーンさんで、韓国系の人だった。

 このころのロスは黒人系よりも東洋人、わけても韓国系の移民の人口が爆発的に膨張しており、それを象徴するように思えた。ヨーンさんはいかにもアメリカに同化したような陽気な牧師だ。

 この映画について感想を聞くと、「私だったら、挙式の前に、本当に結婚したいかどうかを二人に問いただす。迷いが見えたら結婚式をさせない」ときっぱりと笑って話した。ミサに参加した35歳の男性の信者に聞くと、「親が無理に結婚させようとしたのを、主人公は跳ね返した。愛が保守的な枠を乗り越えた」と語る。

 この二人にとっては生まれる前の映画だが、アメリカの一つの時代の変化がすっかり社会に定着していると感じた。

映画『卒業』の舞台になったラバーン・ユナイテッドメソディスト教会。ラストシーンでベンが教会の2階から叫ぶ場面を、信者の一人が再現してくれた=2007年9月、米カリフォルニア州ラバーン

ダスティン・ホフマンさんに謝罪の真相を聞いた

 主人公を演じたダスティン・ホフマンさんにハリウッドで会って1時間のインタビューをしたのは2003年だ。事前に図書館で彼の伝記を何冊も読み、彼を知る人に話を聞いた。そこで驚いたことがある。

 女装して話題になった映画「トッツィー」のキャンペーンで1983年に初めて来日したさい、彼は羽田空港で200人もの記者たちを前に深々と頭を下げ、戦時中の米軍による原爆投下を謝罪したというのだ。

 ダスティン・ホフマンさんに会ったのは、ハリウッドの一角にあるロサンゼルスのホテルの一室だった。彼の新しい映画が日本で封切りになることが決まり、そのためのインタビューだった。もちろん、新作についても聞くつもりだったが、私はそれよりも原爆投下への謝罪が気になった。だから最初にそれを質問した。

 「本当ですか」と聞くと、彼は驚いた顔を見せた。映画のインタビューの、それも冒頭でこんな質問をされたことはなかったのだろう。すぐに彼は大きな声でまくしたてた。

朝日新聞のインタビューに応じたダスティン・ホフマン=1992年5月21日、東京・銀座

「米国人は知らぬまま。正しい情報なしに戦争は止められぬ」

 「アメリカ人は広島と長崎に原爆を落としたことは知っているが、その結果を知らない。太陽が二つになって街も人々も破壊したことを知らない。

 原爆の前に焼夷弾を落として日本の半分の人々に被害を及ぼし、多くの家を焼いたことを知らない。爆撃で殺されたのは民間の男女、子どもだった。原爆投下前に日本は原爆の何倍もの被害を受けていた。

 それを米国人は知らない。あれから60年たった今でさえ、だ。それはおかしいし、危険なことだ。正しい情報が流されないと戦争は止められない。しょせん映画だと思うかもしれないが、映画が芸術の一形態であるなら、本来伝えられるべき情報を映画の中でも伝えるべきだ。私自身はそのようにしていきたい」

米軍の焼夷弾爆撃で炎上する横浜。この日だけで500機を超すB29爆撃機による焼夷弾約44万個の空爆を受け、3650人が犠牲となったと推計される=1945年5月29日、米軍撮影
大阪へ焼夷弾を投下する米軍のB29爆撃機。画面右が大阪城と中之島。米軍の情報ではこの日、474機が大阪上空に侵入。約2時間、焼夷弾による無差別攻撃を行った=1945年6月1日、米軍撮影

自国批判も政治的意見も堂々と述べる勇気

 政治的な意見、しかも自国の批判を外国の記者に対して堂々と述べる、その意志の強さに感動する。

 インタビューしたのは9・11のテロからわずか2年後だ。このテロについて感想を求めると、「なぜテロが起きるのか?貧困や、取り残された人々からテロが起きるのではないだろうか。テロを引き起こす人々の絶望的な気持ちを、我々は理解しなくてはならない」と語った。この時期のアメリカではテロを起こした犯人への報復が声高に叫ばれていただけに、勇気ある発言だと感じた。

飛行機の突入直後、激しく炎が噴き出す世界貿易センタービル=2001年9月11日、ニューヨーク
ニューヨーク・ユニオンスクエアの掲示板には、テロによる行方不明者の情報を求める紙が風雨にさらされて張られていた=2001年9月19日

 ひとしきり映画の話を聞いたあと、「なぜ俳優を目指したのですか」と質問した。すると、意外な答えが返って来た。

「劣等感の塊でも、人間としての尊厳だけは持っていた」

 「物覚えが悪く、高校時代は試験の成績がひどくて退学になりかけた。背が学年で一番低く女の子にまったくもてず、コンプレックスの塊だった。誰も雇ってくれないし、軍隊には行きたくない。何の自信もなかったが、人間としての尊厳だけは持っていた。俳優なら成功しなくても当たり前で、周囲からは芸術家として尊敬される。失うものがない。俳優のほかに選択肢はなかった」

 身長は163センチ。おまけにユダヤ人の血を引いている。劣等感に悩まされながら、誇りだけは気高く保っていた。それが彼の青春だったのだ。ニューヨークに行きブロードウェイの劇場を回って通行人の役にありつこうとしたが、なかなか雇ってもらえない。

 同じ俳優の卵のジーン・ハックマンのアパートに転がり込んで台所の隅で寝ながら、どんな端役でも懸命に演技した。30歳になるまで年収は3000ドルを超えたことがなく、親からの毎週の仕送りが無かったら生きていけなかった。

第70回カンヌ国際映画祭でのダスティン・ホフマン=2017年5月(Andrea Raffin / Shutterstock.com)

自分をちっぽけな存在としか見ていなかった大俳優

 そんなとき新作の映画の主役を探していたのが『卒業』のマイク・ニコルズ監督だ。金髪で背が高いイケメンにしようとロバート・レッドフォードを考えたが、新鮮味に欠ける。舞台を撮影したフィルムを見ていると、たった45秒の出演ながら驚嘆する演技をする無名の役者が目に留まった。それがダスティン・ホフマンだ。

 オーディションの様子が彼の伝記『DUSTIN HOFFMAN:Hollywood’sAntihero』(St.Martin’s Press、1983年)に出ている。ベッドシーンを演じることになったが、彼は俳優養成所でベッドシーンなど経験したことがない。相手役のキャサリン・ロスは「彼は身長90センチくらいに見えた。寡黙でユーモアもなくだらしなく思えた」と語っている。でも、監督にはその初心な若者の心が主人公にぴったりだと思えた。てっきり落ちたと思っていたホフマンは、

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