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「仕方がなかった――」万能の言葉が歪める戦争責任 九大生体解剖事件から問い直す

劇作家・古川健が描き出す「組織と個」

石川智也 朝日新聞記者

 今年も8月15日がやってきた。

 終戦から76年目の夏も、昨年同様コロナ禍で規模は縮小されながらも、各地で平和祈念の催しが開かれた。えも言われぬやるせなさを抱いてしまうのは、老齢に達した語り部たちの、自分たちが最後の証言者になるであろうという切実な覚悟とは対照的な、原稿読み飛ばしや式典遅参というこの国トップの醜態があったからではない。戦争体験談においてはいつも「加害」よりも「被害」のエクリチュールの方が圧倒的に多い、という理由だけでもない。

 8月という月は、私たち日本人をどこか運命論者のようにしてしまう。一年の折り返し点は6月末のはずだが、なぜか私には、旧盆のさなかの8月15日、夏の極みのこの日こそが一年のエントロピーの頂点という気がしてならない。様々な意味で、日本人が死者を最も身近に感じる日でもある。

 「8・15」は国を挙げての鎮魂の日であり、さきの大戦について思いを馳せる日とされている。しかし死者たちの無言の声はいつも多弁に解釈され、拡声された「平和」「自虐」「誇り」「過ちは繰り返しません」といった大文字のキーワードとともに消費されていく。

 そこでは、「仕方がなかった」という諦念として受け入れてしまった歴史の渦をもう一度遠心分離し、そこで個々人が果たした役割や責任を自ら追及しようという意思は、なぜかいつも、真夏のエネルギーの蒸発とともに拡散していってしまうのだ。

終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供

米兵捕虜8人を死なせた「九大事件」

 「仕方がなかった」に相当する表現は、英語でも「It can’t be helped.」や「It is what it is.」あるいは「I had no choice.」など複数ある。だが、責任逃れというより責任主体が霧消してしまったかのような、諦観とニヒリズムを含有した「仕方がない」という日本語のニュアンスとは、いずれも少し異なる。

 この「仕方がなかった」というマジックワードそのものがテーマに収斂していく終戦ドラマが8月13日夜、NHK総合で放送された(9月4日夜にBSプレミアムで拡大版を放送)。例年と同じように見えた「8月もの」のフィクション群のなかで、異色とも言える題材が興味を引いた。

 そのタイトルも「しかたなかったと言うてはいかんのです」というドラマが扱ったのは、終戦間際に九州帝大医学部で実際に起きた、捕虜解剖事件だ。

終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供

 ドラマの原案のノンフィクション『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素/岩波書店)などに記された証言は、生々しい。

 1945年5月、陸軍大刀洗(たちあらい)飛行場(福岡県)を爆撃した米軍のB29が日本軍機の体当たり攻撃で撃墜され、捕らわれた米兵8人が九州帝大に運ばれる。

 第一外科の教授から「今から軍に頼まれた手術をやる。手伝ってもらう」と告げられた助教授・鳥巣太郎は、軍人を含め十数人が集まった解剖実習室で、手術に参加する。銃創のある米兵が歩いて入室し、麻酔で眠らされた。教授が執刀し胸部が切開、肋骨が切除され、右肺が切り取られる。「人間は片肺を取っても生きられる」。誰かがそうつぶやいた。血液を抜かれ、代わりに海水を輸液された米兵は、二度と目を覚ますことなく、絶命した。

横浜軍事法廷に臨む鳥巣太郎=朝日新聞DBより横浜軍事法廷に臨む鳥巣太郎=朝日新聞DBより

 生きた人間を使った実験手術にほかならないことを知った鳥巣は衝撃を受け、教授に中止を進言するが、結局、次の手術にも参加する。

 終戦までに計4回実施された実験手術で、8人の捕虜は全員死亡した。

 事件は戦後あかるみに出て、軍将校や教授ら30人が戦犯として起訴された。実験を指揮し執刀した教授は勾留中に自殺。1948年の横浜軍事裁判で23人が有罪となり、うち5人が極刑に。首謀者と見なされた助教授の鳥巣も、絞首刑を宣告される(後に減刑)。

 ドラマでは、鳥巣太郎をモデルにした鳥居太一(妻夫木聡)が、本当に「仕方がなかった」のか、命令に従っただけの自分にも罪があるのか苦悩し、自らの「責任」に向き合うことになる。

終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」より=NHK提供

「無責任の体系」に抗して

 脚本を担当したのは、劇団チョコレートケーキの劇作家・古川健。これまでもアウシュビッツ、731部隊などのテーマに切り込んできたが、ここ数年、集団や組織の中の「個」という、現代に通じる問いを中心に据えた作劇が目立つ。日本の集団的意思決定場面で毎度毎度あらわれる「無責任の体系」の追究でもあり、まさに、「仕方がなかった」という総括で自足してしまいがちの、個々人の戦争責任を問い直すことへのこだわりが見える。

 今年2月に上演した『帰還不能点』では、日米開戦前夜の1940年に国が設立した「総力戦研究所」の一期生たちを取り上げた。

 戦前の中央省庁や陸海軍、日銀などの中枢にいた少壮エリートだった研究生たちが真珠湾攻撃の4カ月前、“模擬内閣”を組織し、それぞれの出身母体から持ち寄った極秘資料を駆使して対米戦必敗の予測を導き出していたことは、史実として知られる。フィクションとして自由に人物造形した今作では、同期の三回忌を機に戦後久々に再会した彼らが、やはり自分たちの「責任」に向きあう。

舞台『帰還不能点』より=劇団チョコレートケーキ提供舞台『帰還不能点』より=劇団チョコレートケーキ提供

 開戦後の戦局の推移を正確に見通していた一同は「アメリカと戦争して勝てるわけがなかった。馬鹿馬鹿しい」と軽口を叩き、戦時中のこの国の指導者たちの言動を他人事のように批評していたが、死んだ同期が戦前の落とし前をつけるために自らを罰していたことを知る。それまで「俺たちに戦争は止めようがなかった」「仕方がなかった」と言っていた面々が、開戦を防ぐため自分たちにできたことが本当になかったのか、苦悩し始める。

劇団チョコレートケーキの劇作家・古川健劇団チョコレートケーキの劇作家・古川健

 古川は「鳥巣にしても総力戦研究所の一期生にしても、自分の『やったこと』だけでなく『やらなかった』ことも含めて自らの過去に葛藤する姿を描くことにこそ、意味があると思っています」と語る。

 「個々人の責任は、自分がどうあるべきだったか問い続けることでしか取りようがないし、いまの時代を生きる私たちが自分になぞらえて教訓を得るにしても、そこにしか手がかりはない。遠い過去の話を敢えてこの時代に問う意味も、そこにあります」

 「その意味では、戦争を描くにしても、単に日本が痛い目にあって大きな被害を受けました、という側面だけでは済まない。そう思っています」

 心底からの「戦争はこりごりだ」から戦後をスタートした日本にとって、記念日ジャーナリズムが伝えてきた3月10日と以降の大都市空襲、6月の沖縄選終結、二つの原爆忌、ソ連参戦、そして8月15日でクライマックスを迎える1945年のできごとは、集合的記憶(social memory)として刻み込まれてきた。

 一方で、7月7日(盧溝橋事件)、7月28日(南部仏印進駐)、9月18日(柳条湖事件)、12月8日(真珠湾攻撃)という日付は、社会的記憶喪失(social amnesia)の地平に追いやられている。なぜこの戦争を始めたのか、なぜ止められなかったのか、その過程の検証や共有は、まさに、いまなお未解決の日本の課題でもある。

 自分は巻き込まれただけだ、命令に従っただけだ、仕方がなかった――。これは責任の減殺を酌量する理由にはなっても、罪そのものを無化できるのだろうか。

 第2次大戦の戦犯訴追について米英仏ソ4カ国が締結したロンドン憲章では、上官の命令を理由に人道上の罪は免責されない、という国際法上の重要な原則が初めて打ち出された。これはナチス幹部を裁いたニュルンベルク裁判の根拠となり、戦後の国際人道法を前進させるエポックになった。

 人は組織人である前に人間であり、ヒューマニズムという普遍的倫理に従うなら、場合によっては自分の職能を裏切らねばならないときがある。ホロコーストの蛮行を主導したアドルフ・アイヒマンが法廷で「自分は命令に従っただけだ」と官僚答弁や弁明を繰り返す様子に、ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」を見いだす。この「悪」は、陳腐で表層的で害意が見えず、無自覚であるがゆえに底無しに広がって世界を荒廃させかねない、とアーレントは言う。

新時局の態勢の中心となるべき人物を育成するという総力戦研究所が開設され、その入所式が1941年(昭和16年)4月1日に行われた。中央奥に近衛文麿首相の姿が見える=朝日新聞DBより新時局の態勢の中心となるべき人物を育成するという総力戦研究所が開設され、その入所式が1941年(昭和16年)4月1日に行われた。中央奥に近衛文麿首相の姿が見える=朝日新聞DBより

「責任を取る」というマジックワード

 古川は昨年8月の舞台『無畏』でも、南京事件の責任者でA級戦犯として起訴され処刑された松井石根を通じて、戦争責任を扱った。日本における「責任」の語法の危うさに迫った秀作だった。

舞台『無畏』より=劇団チョコレートケーキ提供舞台『無畏』より=劇団チョコレートケーキ提供

 親中派だった松井は、配下の将兵の独断と暴走を防ぎ得なかったゆえに極刑というかたちの責任を取らされた悲劇的人物かのようにも伝わる。だが、南京攻略を参謀本部に進言したのは他ならぬ松井であり、軍規粛正の徹底を命じながらも早期の入城式にこだわったことが犠牲拡大につながった面もあり、その人物像も歴史的経緯も単純ではない。

 作中、「責任はすべて私にある」と繰り返す収監中の松井に、対話相手である弁護士(劇中で唯一、架空の人物)は、やがて自らの役割を逸脱した追及を始める。「事件を防ぐためにあなたにできたことは」「徴発と略奪の違いはなにか」「何が起きていたのか、本当に知らなかったのか」……迫真の丁々発止を通じて、松井の本音や苦悩があぶり出されていく。

 そして弁護士はついに宣告する。「責任はすべて私にある――それは魔法の言葉ではないですよ」(ここで観客は否応なく、似たような言葉を繰り返した政治家が現代にもいたことを思い起こすことになる。「責任を痛感している」「すべての責任は首相である私にある」……)。

南京に入城した陸軍大将・松井石根軍司令官(中央)=1937年12月17日、朝日新聞DBより南京に入城した陸軍大将・松井石根軍司令官(中央)=1937年12月17日、朝日新聞DBより

 丸山眞男が「無責任の体系」と名付けた宿痾がなお日本に巣くい続けているのは、社会構造や日本人の心性の問題などではなく、おそらく、この戦争責任の追及の問題に大きな原因がある。

 この芝居がフィクションならではの手法で松井の内心や行動を問うのは、かつての戦争指導者たちに責任を帰するためではなく、日本人が自らの手で、個々人の刑事的、政治的、道徳的な責任を追及することの意味を確認するためである。

 あらためて

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