[2] 奪われた楽園 白人の帝国主義に踏みにじられたハワイ先住民~「アロハ・オエ」
伊藤千尋 国際ジャーナリスト
王が考えた対米の奇策―日本の皇室とハワイ王室の婚姻計画
カラカウア王は、米国の邪悪な意図に気づいた。このままでは米国の植民地になると考えた王は、奇策を思いついた。

カラカウア王(左)と英国の小説家ロバート・ルイス・スティーヴンソン。1880年代の撮影(Shutterstock.com)
ハワイは太平洋を挟んだアメリカと日本の中間にある。王は、日本人もハワイ人と同じく太平洋の同胞だと考え、アメリカよりもむしろ日本に親近感を抱いていた。
そこでカラカウア王が考えたのが日本との連携だ。王は世界一周の航海に出た1881年、最初に日本に寄港して東京、大阪、京都や長崎まで訪れ、20日近くを日本で過ごした。

カラカウア王が訪日したときに明治天皇から贈られた勲章を見る昭和天皇と香淳皇后=1975年10月11日、ホノルルのビショップ博物館
日本側もまた王を国賓として盛大に歓迎した。なにせ日本を訪れた最初の外国の国家元首である。横浜に王が上陸した際、王自身が作詞した国歌を日本海軍の軍楽隊が演奏し、王はうれし涙を流した。
このとき、カラカウア王は大胆な行動をとった。日本の皇室とハワイの王室との縁組を申し出たのだ。
カラカウア王はアメリカ人の随行員に極秘のまま夜間、通訳だけを伴って明治天皇に至急の会見を申し入れた。伝統的な日本文化への敬意を表し、ハワイが今や米国の抑圧の下に苦しんでいる状況を説明した。その上で、王位継承者に連なるカイウラニ王女と山階宮定麿親王との婚儀を申し入れた。あらかじめ具体的な結婚相手の候補者まで特定して準備していたのだ。

ハワイ王国最後の王位継承者だったカイウラニ王女
王が奨励したハワイ移民 日系移民がハワイの4割に急増
当時のカイウラニ王女の写真を見ると、美しくて凛々しく聡明そうである。しかし、明治政府は王の申し出を拒否した。当時は欧米列強の仲間入りをすることしか頭になく、ハワイの先住民族を尊重する思考はなかったようだ。

オアフ日本人官約移民百年祭委員会が建てたカラカウア王の銅像。「ハワイ日本人移民の父」と呼ばれている=ハワイ・オアフ島
もしこの提案を日本が受け入れて、その後もとんとん拍子に外交が展開していたなら、ハワイと日本の関係はがぜん進んでいただろう。ハワイはアメリカに属するかわりに日本との連携を強めていただろう。
カラカウア王はこの明治天皇との会見で日本人のハワイ移民を奨励した。明治政府もこれには同調し、ハワイへの官約移民が4年後に実現する。日本びいきの王の政策もあって、日本からの移民の数は増え、20年足らずでハワイの人口の4割を占めるほどに膨れた。

ハワイの農園でパイナップルを収穫する日系移民の農業労働者。1920年ごろ(Everett Collection / Shutterstock.com)