メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ロヒンギャのカディザさんが順風、逆風の中で挑み続けて思うこと

様々なル ーツ の人々が「 私たちの居場所だ」と思える社会とは

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 響き渡るセミの声色に夏の終わりを感じる夕方、木々の葉を揺らしながら吹き抜けていく涼しい風が心地よい。私は駅からバスで10分ほど揺られた先にある、緑豊かな団地を歩いていた。エレベーターから降り、角部屋の扉をあけると、玄関先までスパイスの香りがほのかに漂ってくる。

 「ようこそ」。爽やかに出迎えてくれたのは、カディザ・ベゴムさん、ムシャラフ・フセインさんご夫妻だ。

 ムシャラフさんが手際よくスイカやリンゴを切ってくれる間、リビングで待つ私の元に小学3年生になる娘のヌラインさんが「こんにちは」と人懐っこい笑顔で駆け寄ってきた。「パパは料理上手で、一番すごいのはバーベキューでね、火おこしたり焼いたりして、この前もすごかった!」と得意げに語り始める。小学5年生の兄、アヤンくんも部屋の奥から恥ずかしそうに顔をのぞかせる。

 カディザさんは今、仕事の傍らで大学院に通う忙しい毎日を送っている。「レポートに集中している時、子どもたち同士が喧嘩していたりすると、もう大変!」と笑う。

自宅のベランダ前に立つカディザさん(撮影・安田菜津紀)

 カディザさんやムシャラフさんは、子どもたちにロヒンギャの言葉で話しかける。ロヒンギャは主にミャンマー北西部で暮らす少数派のイスラム教徒だ。人口は100~130万人ほどとされている。長らく弾圧が続き、軍政は1982年の市民権法により、ロヒンギャの国籍を事実上剥奪(はくだつ)している。

ロヒンギャであることを隠して生活

 カディザさん自身は10人きょうだいの6番目として、ミャンマーの隣国、バングラデシュで生まれた。医師だった父は、民主化運動に参加したことで身に危険が及ぶようになり、1970年代に隣国バングラデシュに脱出し、後に母や子どもたちを呼び寄せた。

 バングラデシュに逃れたロヒンギャの人々は、難民キャンプに収容されることになっているが、医療や教育の機会は乏しく、夏の容赦ない熱気や雨によるぬかるみなど、環境は劣悪だった。父はキャンプの外で、バングラデシュ人に溶け込み、ロヒンギャであることをひた隠しにして生きることを選んだ。

 「父は”自分だけが助かるためにバングラデシュに逃げてきたのではない”と、キャンプの人たちを治療したり、物資を配って回ったりしていました。父に連れられてキャンプに行くと、父は”ここにいる人たちはあなたたちの家族なんだ”と私に語ってくれました」。

 一方で、地域の人々に「正体」が知られるのではという不安は常につきまとった。「私たちがロヒンギャだと分かってしまうのではないかと、違うところに引っ越したり、学校を転々としたりすることが続きました」。それでも、勉強をしなければ自分たちの権利は守れない、という考えの父のもと、教育を続けることに家族は力を注いだ。

アイデンティティを大切にした父と母

 そんな生活の中でも、父や母はロヒンギャとしてのアイデンティティを大切にしていた。「母は家庭ではロヒンギャのご飯を作り、ロンジーという花柄の巻きスカートに白いブラウス、頭にスカーフを巻いて、ロヒンギャの女性たちがよくする服装でいました。誰かが家に来たらすぐに着替え、服も目立たないところに干し、常に用心深く過ごしていました」

 そんな母の料理は、「ちょっと違う風味で美味しい」と近所では評判で、エビなどの材料を持ってきて「これでカレーを作って下さい」と頼んでくる人までいたそうだ。警察の目に怯(おび)える一方で、近隣の人々の中には「何かあったら私の家に来て」と声をかけてくれる人もいたという。「そういう人たちの愛に守られた」とカディザさんは振り返る。

叶わなかった医師になる夢

 ロヒンギャの人々のために奔走する父の背中を見て育ったカディザさんの夢は、父のような医師になることだった。バングラデシュの大学の競争率は非常に高く、医学部となるとさらに熾烈な争いだった。睡眠時間を削り、必死の思いで机に向かい続けた。

 そんなカディザさんの前に立ちはだかったのは、成績ではなく、書類の「壁」だった。受験や進学に必要な書類を警察に取りに行けば、身元が割れ、自身のみならず、他の家族の身も危うくなるかもしれない……。リスクをとることはできなかった。

 全身全霊で勉強に打ち込んでいたカディザさんにとって、その喪失感は泣いても泣いても埋められないものだった。父も泣きながら、カディザさんに声をかけた。「こんなに頑張っても夢を叶(かな)えられない国があってはいけない。でも、同じように苦しんでいる人たちの夢がなくならないよう、私たちも頑張らなければ」。医師ではなくても、人を助ける活動はできるはずだ、と。

親の勧めで結婚、日本へ

 泣き崩れている日々の中で出会ったのが、母方の親戚にもあたるムシャラフさんだった。

左から、ムシャラフさん、娘のヌラインさん、カディザさん、息子のアヤンくん(撮影・安田菜津紀)

 ムシャラフさんの父は歴史家、作家であり、カディザさんの父と同じように民主化運動に携わったことで命を狙われるようになった。警察は父の「身代わり」に、18歳だったムシャラフさんを連行し、激しい拷問を加えたこともあった。

 ムシャラフさんの両親はバングラデシュへ逃れ、ムシャラフさん自身はその後、韓国経由で日本へと渡り、難民認定を受けた数少ないうちのひとりとなった。認定を受けるまでの2年半、日々をつなぐための借金は膨らみ、苦しい生活を強いられたという。それでも、パスポート代わりに交付される「再入国許可所」を手に、両親に会うためバングラデシュを訪れていた。

 親たちの結婚の勧めには迷いもあったが、「日本で勉強を続けること」を条件に、カディザさんは日本行きを決意する。2006年の12月、慣れない気候の日本の最初の印象はとにかく「寒い」だった。

日本語を猛勉強。奨学金試験を突破し大学へ

 渡航後、物価が高い東京での生活は楽ではなく、何の支援も得られないまま進学することは困難だった。カディザさんはまずRHQ(難民事業本部)が難民やその家族に提供している「定住支援プログラム」を受け、6カ月の日本語学習のプログラムをわずか2カ月で終わらせた。さらにその後、日本語学校で2年間の猛勉強を続けた。

 「宝くじを買うような気持で臨んだ」という奨学金の試験。狭き門を突破して、青山大学総合文化政策学部への進学が叶ったカディザさんはそれからの4年間、国際関係論や難民の人権問題などについて学んでいく。話を聞きながら私は、その学びへの凄まじい熱量に、とにかく圧倒されていた。

 「でも、入学してからすぐ、妊娠が分かったんです。先生方の中には、出席が難しい時はレポートで補ってくれたり、柔軟に対応してくれる先生もいました。大きなお腹で大学に通って、2年生の前期の期末試験直前に上の子が生まれました。それからすぐにテストだったので、もう大変!でも、友人も授業の内容をまとめてくれたりノートを協力してくれたり、ここでも支えられました」

難民の自立を支援する職場との出会い

 3年生になり、皆が「リクルートスーツ」を着ている姿を横目に、カディザさんは将来を考えていた。「子どももまだ小さいし、皆のように一日8時間、定時で働くのは諦めかけていたんです」

 そんなときに出会ったのが、現在の職場でもあり、会社として難民の自立支援を続けているユニクロだった。最初は学生インターンとしてのプログラムに参加し、ヒジャブを被って勤務しても問題ないなど、柔軟な職場環境に惹かれたという。

 卒業の日も見えてきたころ、カディザさんは二度目の出産の日を迎えることになる。それも、卒論提出が間近に迫る12月だった。ヌラインさんは予定日よりも少し早く生まれたため、10日間入院が必要だった。パソコンや資料など、卒論仕上げに必要なものを全て病室に持ち込み、「赤ちゃんを抱えながら勉強している人がいる」と院内で噂になったほどだ。

 「大変なことが続いたけれど、そんな環境が私を強くして、何でも挑戦できるような気持ちにさせてくれたのだと思います。その後の自信にもつながっていきました」と、カディザさんは微笑む。

東日本大震災の影響で東京から群馬県へ

 とはいえ、卒業後も一家が順風満帆に歩めていたわけではない。2011年、東日本大震災が起き、多くの外国人客がいなくなってムシャラフさんのハラール食材店は立ち行かなくなった。東京に住み続けることが難しくなり、一家はロヒンギャの人々が多く暮らす群馬県館林で暮らし始める。

 環境が大きく変わったうえに、ムシャラフさんのビジネスにも大きなトラブルが続いた。生活をつなぐため、慣れない工場での肉体労働に従事したムシャラフさんの体重は一気に落ち、心筋梗塞で倒れたこともあった。

 不安を抱える中でカディザさんの支えとなったのは、周囲のロヒンギャの女性たちだった。けれども、共に時間を過ごすうち、彼女たち自身の課題も見えてきた。

女性たちの日本語クラスや子どもの学習支援に奔走

 女性たちのバックグラウンドは様々だが、中には学校に行ったり、日本語を学んだりする機会を得られなかった女性たちもいる。日本語ができないので、病院にひとりで行けない、役所への申請ができない、子どもが学校から持って帰ってきたプリントなどが読めない女性たちが、カディザさんを頼り、次々と訪ねてくる日々が続いた。

 「最初は産休中だから支えられましたが、私がずっとそばにいられるわけではないですよね」。カディザさんは女性たちの日本語クラスの開催にこぎつけ、職場に復帰後も、仕事が終わった後、NPOの活動として、公民館で子どもたちの勉強を教えたりもした。

 現在、NPO法人「人間の安全保障フォーラム(HSF)」が子どもたちの学習支援を続けており、カディザさんは開催当初から学生を紹介したり、保護者たちとミーティングを重ねてきた。今年の4月からは団体の事務局を担当するなど、カディザさんが始めた活動は形を変えながら根付きつつある。

 この数年間、女性たちの変化も感じている。学習を重ねることで自信を得て、仕事をはじめたり、免許をとったりする女性たちもいる。「保育士になりたい」「看護師になりたい」と、さらなる夢を描く声も聞こえてくる。「そのサポートをするためには、もっと私も学ばなければならない」。それが今年の4月に早稲田大学大学院に進学した動機でもあった。

ムシャラフさんと食卓を囲むカディザさん(撮影・安田菜津紀)

気がかりなロヒンギャをめぐる海外の状況

 日本国内でも今なお、不安定な生活を余儀なくされているロヒンギャの人々は少なくないが、国外の動きもまた気がかりだ。

・・・ログインして読む
(残り:約2030文字/本文:約6524文字)