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ロヒンギャのカディザさんが順風、逆風の中で挑み続けて思うこと

様々なル ーツ の人々が「 私たちの居場所だ」と思える社会とは

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

叶わなかった医師になる夢

 ロヒンギャの人々のために奔走する父の背中を見て育ったカディザさんの夢は、父のような医師になることだった。バングラデシュの大学の競争率は非常に高く、医学部となるとさらに熾烈な争いだった。睡眠時間を削り、必死の思いで机に向かい続けた。

 そんなカディザさんの前に立ちはだかったのは、成績ではなく、書類の「壁」だった。受験や進学に必要な書類を警察に取りに行けば、身元が割れ、自身のみならず、他の家族の身も危うくなるかもしれない……。リスクをとることはできなかった。

 全身全霊で勉強に打ち込んでいたカディザさんにとって、その喪失感は泣いても泣いても埋められないものだった。父も泣きながら、カディザさんに声をかけた。「こんなに頑張っても夢を叶(かな)えられない国があってはいけない。でも、同じように苦しんでいる人たちの夢がなくならないよう、私たちも頑張らなければ」。医師ではなくても、人を助ける活動はできるはずだ、と。

親の勧めで結婚、日本へ

 泣き崩れている日々の中で出会ったのが、母方の親戚にもあたるムシャラフさんだった。

拡大左から、ムシャラフさん、娘のヌラインさん、カディザさん、息子のアヤンくん(撮影・安田菜津紀)

 ムシャラフさんの父は歴史家、作家であり、カディザさんの父と同じように民主化運動に携わったことで命を狙われるようになった。警察は父の「身代わり」に、18歳だったムシャラフさんを連行し、激しい拷問を加えたこともあった。

 ムシャラフさんの両親はバングラデシュへ逃れ、ムシャラフさん自身はその後、韓国経由で日本へと渡り、難民認定を受けた数少ないうちのひとりとなった。認定を受けるまでの2年半、日々をつなぐための借金は膨らみ、苦しい生活を強いられたという。それでも、パスポート代わりに交付される「再入国許可所」を手に、両親に会うためバングラデシュを訪れていた。

 親たちの結婚の勧めには迷いもあったが、「日本で勉強を続けること」を条件に、カディザさんは日本行きを決意する。2006年の12月、慣れない気候の日本の最初の印象はとにかく「寒い」だった。

日本語を猛勉強。奨学金試験を突破し大学へ

 渡航後、物価が高い東京での生活は楽ではなく、何の支援も得られないまま進学することは困難だった。カディザさんはまずRHQ(難民事業本部)が難民やその家族に提供している「定住支援プログラム」を受け、6カ月の日本語学習のプログラムをわずか2カ月で終わらせた。さらにその後、日本語学校で2年間の猛勉強を続けた。

 「宝くじを買うような気持で臨んだ」という奨学金の試験。狭き門を突破して、青山大学総合文化政策学部への進学が叶ったカディザさんはそれからの4年間、国際関係論や難民の人権問題などについて学んでいく。話を聞きながら私は、その学びへの凄まじい熱量に、とにかく圧倒されていた。

 「でも、入学してからすぐ、妊娠が分かったんです。先生方の中には、出席が難しい時はレポートで補ってくれたり、柔軟に対応してくれる先生もいました。大きなお腹で大学に通って、2年生の前期の期末試験直前に上の子が生まれました。それからすぐにテストだったので、もう大変!でも、友人も授業の内容をまとめてくれたりノートを協力してくれたり、ここでも支えられました」

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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