民が離れ、官僚が萎え、同僚議員も離反~私利に囚われた末の退陣表明の構図
2021年09月08日
一国の指導者は誰しも、「已むに已まれぬ思い」を内に持つ。
これだけは何があっても成し遂げたい、これを成し遂げないうちは死んでも死にきれない、との思いだ。無論そう思うのは、それを達成することが国民のためになると思うからだ。
かつて、吉田茂首相は独立を果たし、軽軍備の中で復興を果たすことこそ国民が目指すべき目標とした。岸信介首相は、賛否両論で日本中が揺れる中、対米平等の新安保条約こそ日本に必要とした。池田勇人首相にとり国民が豊かになることこそが重要な目標だった。中曽根康弘首相は、そういう思いを長年大学ノートに書き溜め、首相になった時それを実行していった。
ところが、中には、その「已むに已まれぬ思い」が弱いものでしかなく、はたから見ればそれを持たずに指導者になったかと思われる者もいる。
予期せぬ形で指導者の地位が転がり込んでくれば「已むに已まれぬ思いを準備する時間がない」。あるいは、それまで、この国をどうしようとか、この国はこうあるべきかなどを考えることなく政治家人生を過ごしてきた場合がそうだ。政治を「権力」を軸に見てきた。
指導者が「已むに已まれぬ思い」を持たないとき、とかくその発言が国民に届きにくい。内に秘めた強い思いがないから、メッセージに力がなく、官僚から借りた言葉だけでは国民はとんと動かない。安全安心の決まりきった文句の繰り返しで、国民の心が揺さぶられるほど人の心理は単純でない。
発言が国民に届きにくいのは、発言の仕方や、表現方法の問題もあるが、根本は「訴えたいものを持っていない」からだ。
「訴えたいものを持っていない」というのは、平時は問題になりにくい。平時では、政治は、ルーティーン上に処理される。今日は昨日の延長であり、明日は今日の続きだ。
しかし、危機にあっては、事態はそんな生易しいものではない。何より、国民を動かし、指導者が目標とするところに、その心をまとめ上げていかなければならない。危機は、国民が一丸となってこそ克服できる。国民の協力なしに、指導者が独力で処理できるのは危機ではない。
政治は、権力をめぐるドラマだ。権力と無縁の政治などあるはずもない。ここでいうのはそういうことではない。政治を「権力」を軸にして見るとは、政治の目標を、権力を掴み取ることに置く、ということであり、その過程で、権力がどこにあるかを察知するということであり、権力をどう使えば人が動くかを知り尽くすことだ。
要するに、目標を専ら「権力」の視点から見る。かくて、政治を「権力」を軸にして見ることに熟達したものは、人を縦横無尽に操る。
その結果、「そんなこと、とてもできません」というようなことも気が付けば可能になっている。
脱炭素やデジタル化もそうだ。脱炭素は、世界の趨勢がその方向に向かって動いており、従って日本がそれに抗っていては世界の動きから取り残されることが明らかであるにもかかわらず、産業界含め、これに本気で取り組む姿勢は乏しかった。環境省だけがいくら旗を振っても、政官や産業界の要所では誰も石炭火力からの脱却など真面目に取り合おうとはしなかった。
デジタル化も、今や、全世界の産業構造が一変し、全ての部門がこの新たなシステムに沿って再編されなければならないという時に、日本は縦割り行政がアダとなり少しも前に進まない。
政治を「権力」で見る手法は、こういった二進も三進もいかない宿弊に風穴を開けることができる。
しかし、政治を「権力」で見る手法は、大きな弊害もつきものだ。
この手法が得意とするのは、人事権を使っての操縦だが、それは往々にして、入ってはいけない領域に足を踏み入れることになる。安倍・菅両内閣での日本学術会議人事や検察幹部の定年延長問題など、我々はその危うさをいくつも見てきた。
何より、深刻と思うのは、官僚機構が換骨奪胎されたことだ。
安倍内閣が旗印とした官邸強化で縦割り行政が是正されると期待したが、結果は、省庁幹部の人事権を官邸が握ることにより官僚が骨抜きになってしまった。中心となって進めたのは官房長官だった菅氏だ。官僚操縦のカギが人事であることは疑いない。これを各省が分掌すれば「縦割り」となり、官邸が集中管理すれば「忖度」を生む。人事はかくも難しい。
しかし、骨抜きと忖度では官僚機構は機能しない。何より、そんなところに入ろうと思う有為な若者がいない。組織は人だ。どれだけ優秀な人材を集められるかがカギだ。明治以来、日本は官僚が高い地位を占めてきた。それは弊害もあったが、官僚の士気を高めることにも役立った。この士気が萎えて何の官僚組織か。
「已むに已まれぬ思い」を内に持たず、単に政治を「権力」を軸に見ると、自らがその「権力」を喪失しかねないという極限状態で思わぬ行動に出てしまう。
総裁選の対抗馬が「党役員人事は一期一年で三期まで」と打ち出した時、菅総理は何を思ったか、自らも「党役員人事の刷新」で対抗するとした。
得意の人事で、政権浮揚が可能と判断したのかもしれない。しかし、残り僅かの任期しかなく、就任してもすぐ辞めなければならないかもしれない。何より、役員に就任すれば次の政権で干されることもあり得る。そういう「泥舟」に、好き好んで乗り組もうという向きは普通はない。案の定、人事で行き詰った。
より深刻だったのが「総裁選先送りと解散総選挙」の噂が駆け巡ったことだ。これ自体は、権力維持の策略を練っていた菅総理が選択肢の一つとして考えていたに過ぎなかったが、報道を受け、話があっという間に広まっていった。
しかし、総裁選なしで、自民党が真剣に新総裁を選んだことを国民に見せられるわけもない。つまり、これは自民党の「自爆」解散を意味する。どこに自爆の大義があるか。「私利」のための自民党爆破でないか。
こういうのはすぐ人心を離反させる。自らの権力保持のためには、なりふり構わない、組織も仲間も道連れだ。これでは、ついていこうという者はいない。事ここに至り、既に離反していた国民に加え、同僚議員も離れていった。
これが結局、致命傷になった。総理自ら党本部に出向いて総裁選出馬の意志を幹事長に伝えておきながら、翌日に「断念」を表明する急展開を強いられた。表明は短時間で報道陣の質問は受け付けず、国民向けの詳しい説明もなかった。振り返れば、致命傷の一手を放ったのは「一期一年で三期まで」と言った対抗馬だった。
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