脱税や犯罪、テロへの資金提供、賄賂に使われる高額紙幣
まず、「脱税、金融犯罪、腐敗のコスト」が論じられている。脱税の実態は、税法上算出された総収税額と実際の収税額との差を意味する「タックスギャップ」から推定できる。論文では、「米内国歳入庁(IRS)の推計によると、計算された最新の年である2006年のタックスギャップは3850億ドルで、納税額の14.5%に相当する」という。英国では、やや異なる定義のタックスギャップが2013/4に340億ポンドであったと見積もられており、これは納税額の6.4%に相当する。他方、後進国では、タックスギャップは一般的にかなり大きいと言われており、バングラデシュでは36%、南アフリカでは23%、タイでは53%のタックスギャップがあると推定されているという。
具体的に高額紙幣がどのように脱税に利用されているかの実例が論文に載っている。その部分を引用してみよう。
「英国で人々にたいして、最高額の50ポンド札を最後に使ったのはいつですかと尋ねると、もっとも共通する答えは建築業者や配管工への支払いであるという。現金で支払えば20%の付加価値税を免れることを容易にし、建設業者が従業員に現金で支払えば、雇用税を回避し、従業員は所得税を免れることができるため、脱税の誘因となるのだ。」
金融犯罪にも匿名性が担保されている高額紙幣が頻繁に利用されている。論文では、国連薬物犯罪事務所(UNODC)は2011年の報告書のなかで、2009年の金融犯罪の規模を世界のGDPの3.6%に相当する2.1兆ドルと推定したとしている。この数字は、脱税や腐敗を除いた、犯罪行為に直接関係するお金の流れのみを表している。腐敗はといえば、世界銀行の2013年の報告書において、2001/2年の世界の賄賂総額が1兆ドルに達したと推定されているという。
こうした「ダーティー取引」の決済などに大いに利用されているのが高額紙幣だ。
高額紙幣の利便性
そこで、高額紙幣の利便性を確認しておきたい。高額紙幣による現金受け渡しという問題を思い浮かべると、経済再生担当大臣だった甘利明が大臣室で菓子折りの入った紙袋を受け取り、そのなかにのし袋が入っていたとされる事件を思い出す。
2013年1月14日、50万円の受け取りについて、甘利はこう主張する一方、渡した建設会社総務担当者は違う見解をとる。「ようかんの入った木箱に添えて、お礼ですと言って渡して、大臣は封筒を取り出してスーツの内ポケットに入れた」というのである(民主党の大西健介による国会質疑からの引用)。白い封筒を甘利の内ポケットに入れたというのだ。
いずれにしても、1万札が存在しなければ、こんな芸当はできなかったかもしれない。5000円札ではかさばりすぎてしまうからだ。
高額紙幣であっても、物理的なカネである以上、その運搬にはいろいろと手間取ることになる。それを教えてくれるのが「猪瀬都知事、5000万円運んだかばんを公開」というYouTube動画である。猪瀬直樹が東京都知事選に出馬する直前に医療法人徳洲会から現金5000万円を受け取ったという金銭スキャンダルに絡んで、実際に現金5000万円がかばんに入るかどうかが問われた際の映像だ。
紹介したサンズ論文では、興味深い具体的な話が掲載されている。100万ドルの現金を運ぶ場合を想定すると、20ドル札で100万ドル分にすると、その重さは約110ポンド(約50キロ)で、通常のブリーフケース四つ分に相当するらしい。「一人の運び屋では到底無理」と指摘されている。100ドル札の場合、同じ金額でも重さは約22ポンド(約10キロ)で、ブリーフケース一つで済む。
ビットコインよりも優れた高額紙幣
高額紙幣が廃止されるとすれば、小額紙幣への置き換えが起きるだけとみる向きもあるだろう。しかし、小額紙幣はかさばるし、重いので、その輸送や保管にコストがかかることになる。
ダイヤモンドやビットコインのような他の支払い手段への置き換えが進む可能性もある。だが、これらは「犯罪者にとって明らかな不利益をもたらす」と、サンズ論文は指摘している。「ダイヤモンドは、支払者と受取者の匿名性と追跡不可能な取引を可能にするが、価値が変動しやすく、受け入れられにくい。ビットコインは、支払者・被支払者の匿名性を提供するが、取引の痕跡を完全に残すことができ、また、価値が変動しやすく、受け入れられにくいという欠点がある」からだ。
拙稿「いまさらながらのビットコイン考」の「暗号通貨の取引は秘密か」という項目でも、ビットコインが必ずしも匿名性を完全には保証していないことについて説明したことがある。
つまり、犯罪者にとって高額紙幣が廃止されるのは「大いに困る」政策なのである。
貨幣鋳造益(シニョレッジ)はどうなるのか
他方で、高額紙幣がなくなると、発行機関である中央銀行が損失を被る。たとえば100ドル札をつくるコストは12.3セントにすぎないし、1ドル札は4.9セントだから、胴元である中央銀行はシニュレッジを得られる(Kenneth S. Rogoff, The Curse of Cash: with a New Afterword by the Author, Princeton University Press, 2016)。だが、100ドルがなくなると、一部の定額紙幣の需要が増えるにしても損失は免れない。
ただ、シニョレッジを中央銀行の会計からみると、シニョレッジは紙幣を保有者が中央銀行に無利子で貸し付けていると考え、「発行済み残高に対する利息収入から紙幣製造のコストを差し引いたもの」と定義される。したがって、シニョレッジの量は、主に発行済み通貨の価値と適用される金利の関数となる。インフレ期には、保有する現金の実質的価値が急速に低下するため、シニョレッジは重要な収入源となるが、超低金利やマイナス金利では、シニョレッジは無視できるか、横ばいとなる。なお、中央銀行は通常、シニョレッジから自らの費用を差し引き、残りを政府に支払う。

(出所)Peter Sands, Making it Harder for the Bad Guys: The Case for Eliminating High Denomination Notes, M-RCBG Associate Working Paper Series, No, 52, Mossavar-Rahmani Center for Business & Government, Harvard Kennedy School, p. 45,
シニョレッジ
具体的には、表に示したように、米国の場合、100ドル紙幣に関連するシニョレッジの規模は2014年の推定値で約240億ドルになる。日本の1万円札のシニョレッジは20億ドルにすぎない。いかに米国のシニョレッジが大きいかがわかるだろう。とくに、100ドル札は海外においても使用・保管されている。ドルが他の通貨と比較的自由に交換できる「基軸通貨」と呼ばれている所以でもある。海外で保有されている通貨のシニョレッジは、実質的に海外の保有者から無利子で借りていることになるので、発行国にとってのメリットは大きい。
ここで、サンズ論文に示された例をあげてみよう。仮に、100ドル札の50%が海外で保有されていると仮定する。また、100ドル札の発行額の75%が低額紙幣に置き換えられたとする。この場合、国内のシニョレッジは前記の約240億ドルの半分、すなわち120億ドルから、その4分の3にあたる90億ドルに減少し、海外の100ドル札のシニョレッジも同様に減少することになる。このように考えると、連邦準備制度は年間60億ドルの収入を失う。
国内で保有されている100ドル札の損失は30億ドルだが、現金による所得の過少申告の規模が1000億ドル以上であることを考えると、この損失を補って余りあるほどの脱税抑止効果があれば、100ドル札の廃止に反対する理由は見出しにくい。他方で、海外で保有されている100ドル札に関連する年間所得の30億ドルの損失は、米国政府にとっては実質的な損失のように思えるかもしれない。というのも、脱税の減少という利益が米国財務省にもたらされるよりも、海外政府にもたらされる可能性が高いからだ。
ただし、国境を越えた犯罪やテロリズムへの影響と、これらの活動が米国にもたらすコストを考慮すると、「100米ドル紙幣を廃止することで、麻薬や人身売買に関連する国境を越えた資金の流れが阻害され、犯罪者のコストが増加し、阻止率が向上するのであれば、30億ドルは小さな代償と言えるかもしれない」と、論文では指摘されている。
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