花田吉隆(はなだ・よしたか) 元防衛大学校教授
在東ティモール特命全権大使、防衛大学校教授等を経て、早稲田大学非常勤講師。著書に「東ティモールの成功と国造りの課題」等。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
揺らぐ世界秩序、真空状態の現地では過激派に勢い―秩序維持へ同盟国は協力を
米国の力の限界が露呈した。中東を民主主義国に作り替えるとのネオコンの主張に沿い、20年の巨費と人命をかけ、同盟国の協力も得ながら行ったアフガニスタンにおける米国の試みは、結局、撤兵直後にカブールが陥落し、20年前に逆戻りというだけに終わった。
後には、過酷な支配で自国民を恐怖に陥れるイスラム主義勢力タリバンと、テロを繰り広げる過激派組織「イスラム国」(IS)だけが残る。
しかし、もともと米国が世界を圧倒するほどの「絶対的な力」を持ったのは、戦後一時期のことに過ぎない。
第二次大戦の戦火に焦土と化した欧州を尻目に、戦場となることを免れた米国には、当時、全世界の金保有量の6割が集中した。核を独占した米国は、文字通り世界に冠たる経済的、軍事的支配力を手にした。絶対的な力を持つ米国に対抗できる国はなかった。世界の西半分に於いては、だが。
しかし、その状態も長くは続かない。20年ほどたった60年代半ば、ベトナム戦争の負担もあって米国の国力は大きく低下していく。その現実を受け入れ米国の力の限界を認めたのが、当時のニクソン大統領とキッシンジャー補佐官だった。
ニクソン大統領は、同盟国に応分の負担を求め、ベトナムにもベトナム人による自国防衛を求めた。所謂、ベトナム戦争のベトナム化だ。しかし、大統領らの努力も空しく、結局、米国はベトナムからの撤兵に追い込まれていった。その後、米国は「内向き」に転じていく。
米国の歴史は、「外向き」と「内向き」を交互に繰り返す。何とか第一次大戦に参戦した米国だったが、戦後、ウイルソン大統領自身が提唱し、設立の立役者としてノーベル平和賞も受賞した国際連盟には、米国自体の参加がとうとうかなわなかった。この当時米国は、依然「内向き」だったのだ。
第二次大戦後、その反省の下に米国の積極的な「外向き」政策が繰り広げられた。ベトナム戦争はそういう米国の「外向き」姿勢が行き着いた先の出来事だった。
元々、孤立主義の伝統がある米国は、何かあればすぐ「内向き」に転じる。ベトナムからの撤兵で「内向き」に転じた米国は、本来の米国の姿に戻っただけといえるかもしれない。
その後、しばらく「内向き」の期間が続いたが、次に、米国を再び「外向き」に反転させたのが2001年の9.11同時多発テロだった。
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