メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

メルケル首相が去る~奇跡の在任16年をもたらした政治家としての特質

決断が遅く、物言いは地味で、カリスマ性に欠ける彼女はなぜ政治家として大成したのか

宇野重規 東京大学社会科学研究所教授

状況を見極めプラグマテックに判断

 実を言えば、メルケルの評価は割れる傾向にある。

 2011年の東日本大震災をきっかけにドイツを脱原発に向けて思い切って転換したことや、2015年に内戦の続くシリアなどから100万人にも及ぶ大量の難民を受け入れたこと、さらに後で触れるように、コロナ禍にあって冷静に方針を決定し、国民に丁寧に理解を求めたことはしばしば高く評価される。

 その一方で、ヨーロッパ通貨危機においてあくまでドイツの立場にこだわり、ギリシアなどへ緊縮策を求めた際には、ヒトラーになぞらえられたこともあった。内政面でも、前任のシュレーダー政権から継承したものが多く、メルケル政権の下で独自に進められたものは少ないという専門家の評価もある(近藤正基「メルケル氏が残す課題」、毎日新聞8月21日)。

 概して、強い理念を掲げて人々を引っ張るタイプの指導者ではなく、状況の変化を慎重に見極め、プラグマティックな判断をする政治家という評価が目立つ。はたして、そうなのだろうか。それだけで長期にわたる政権を維持できたのだろうか。

拡大「難民受け入れは歴史的使命」と決意を表明するメルケル首相(中央)=2016年7月28日、ベルリン

「壁を超えてきた」政治家

 第一に指摘すべきは、メルケルが「壁を超えてきた」政治家であるということだ。

 アメリカ合衆国のトランプ前大統領が、そして現在も世界の多くの政治思想者が、有形無形の壁によって国境を遮断することを考えているのに対し、メルケルはベルリンの壁の崩壊を受けて、新たなチャンスを得た人物である。

 それゆえ、壁を二度と築いてはならないと考えるメルケルは、前記の『アンゲラ・メルケル』の言葉を借りれば、「地理的、政治的、精神的に異なる世界を経験」し、「壁の暗い向こう側、独裁と全体主義が与える精神的影響を知って」いて、それゆえに「民主主義と自由が奪われることがどういうことか、骨身にしみている」(『アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』〈清水珠代訳、東京書籍〉13ページ)。これは、現代世界の大国指導者において極めて例外的な資質であると言えるだろう。

国民の心に届いたコロナ禍でのスピーチ

 そのようなメルケルであるからこそ、2020年3月18日のスピーチは国民の心に届くものになった。このスピーチで彼女は、新型コロナウィルスの治療薬やワクチンが開発されるまで時間を稼がなければならないこと、その間に鍵となるのは医療機関であり、そのために医療従事者の献身的な努力に感謝すること、さらに他者へ配慮ある行動が重要であることを説いた。

 その上で、国境管理と入国制限を強化したことを述べつつも、それが「渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な正当性がなければ正当化し得ない」と強調した。これはまさに、東ドイツ出身であるメルケルならではの言葉であった。

 苦難を経験してきたからこそ、自由や民主主義の価値を説き、世界が分断される現在であるからこそ、壁を再び築くことに反対する。その説得力は単なるレトリックによるものではないだろう。マイノリティとしての自分の経験を、むしろ人間としての奥行きへと転換したメルケルだからこそ、その言葉が多くの人々の心に響いたはずだ。

拡大新型コロナウイルス対策について、テレビで演説をするドイツのメルケル首相=2020年3月18日、独公共放送のテレビ画面から

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

宇野重規

宇野重規(うの・しげき) 東京大学社会科学研究所教授

1967年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。同大学社会科学研究所准教授を経て2011年から現職。専攻は政治思想史、政治学史。著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫)、『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)、『保守主義とは何か』(中公新書)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

宇野重規の記事

もっと見る