メルケルはいかにして欧州の母になったか~パターナリズム克服に見せた強かさ
常に少数派。骨身を惜しまず、ひたすらドイツのために働いた女性宰相は何者か?
清水珠代 翻訳家
アンゲラ・メルケル首相が16年の任期を全うし、今月26日におこなわれる総選挙を受けて選ばれる新首相に後事を託して、政界から引退する。それに先立ってこの8月、フランス人女性ジャーナリスト、マリオン・ヴァン・ランテルゲム著“C’était Merkel”(2021年アレーヌ社刊)を翻訳した『アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』(東京書籍)を上梓した。
本書はもともと、“Angela Merkel, l’ovni politique”(『アンゲラ・メルケル 政界に降り立ったUFO』)という題で2017年に刊行された。この旧版を私が手に取ったのは、昨年3月。新型コロナウイルス感染症が欧州で猛威を振るい、日本人にとっても「対岸の火事」ではなくなった頃だった。

アンゲラ・メルケル独首相 photocosmos1/shutterstock.com
興味を抱いたコロナ禍でのテレビ演説
フランスではマクロン大統領が、「これは戦争です。拡大し続けるこの目に見えない敵と総力を結集して戦わねばなりません」と警告し、国民に危機感を持つよう呼びかけていた。ほぼ同時にメルケル首相もロックダウンへの理解を求めるテレビ演説を行った。
事態の深刻さを説明するメルケルの口調はいつも通り淡々としていたが、日常生活に制約をかけざるをえないことへの無念さや、不自由を受け入れる国民への共感が伝わってきた。フォーブス誌の発表する「世界でもっとも影響力のある女性」、あるいは「ヨーロッパの女帝」なるイメージとは異なる一面を見たように思い、私は初めてこのドイツ初の女性首相の人となりに興味を抱いた。
一読して是非この本を訳したいと思ったが、2017年刊行ではやや鮮度に欠けるきらいがあり、出版の望みはかないそうになかった。ところが、こちらの願いに呼応するかのように、著者のランテルゲムは旧版刊行以降に蓄えた情報をたっぷり盛り込んで内容を一新し、今年5月に改訂版を上梓した。今か今かと改訂版の完成を待っていた訳者の私は、ランテルゲムのジャーナリスト魂というべき情熱に舌を巻きながら訳出を進め、この度の出版にこぎつけることができた。
閣僚に抜擢された「コールの娘」

『アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』(東京書籍)
メルケルは牧師だった父親の赴任により、1954年7月に生まれてまもなくから、ベルリンの壁が崩壊した1989年まで、旧東ドイツの共産主義政権下で暮らした。物理学者としてベルリンの科学アカデミーで研究に勤(いそ)しんでいたメルケルが政治の世界に入ったのは、壁崩壊がきっかけである。
まず東ドイツの市民運動組織DA(「民主的出発」)に加入して頭角を現したメルケルは、そのままDAが合併した東ドイツCDU(キリスト教民主同盟)の一員となり、さらに東西ドイツ統一後、大政党CDUにたどり着いた。
政界に入ったばかりのメルケルは、「コールの娘」と呼ばれながら、ひとつひとつ経験を積んでいった。ドイツ統一を主導したヘルムート・コール首相は、すでに押しも押されもせぬ重鎮。メルケルはコールに取り立てられ、青少年・女性相に抜擢(ばってき)された。このポストはさほど重みはなく、コールにすれば、東ドイツ出身の若い女性を閣僚に起用したということで、統一後の新内閣の人事において、自らの度量の大きさを示すという意味で好都合だった。