「AUKUS」調査チームによる「中国武漢市PCR調達報告書」の詳細解説
2021年10月05日
「我々は、中国がWHOに対してコロナウイルスについて報告した時期よりも相当前からこのパンデミックが始まっていたことを高確度(high confidence)で結論付ける」
これは、豪州と米国で活動する民間サイバーセキュリティ会社である「Internet 2.0」が本日(10月5日)、公式発表した「中国武漢市PCR調達報告書」の中で述べられたものだ。
この結論は、中国湖北省にある武漢市周辺の諸施設において、2019年5月からPCR機器の政府調達が急増していたことを示すデータに基づいている。Internet 2.0は「OSINT」(オシント:誰でもアクセス可能な公開情報によるデータ収集分析手法)により集めたこの新たなデータに基づき、「中国の武漢市周辺におけるコロナウイルスの蔓延は、早ければ2019年夏には始まっていた可能性が非常に高く、遅くとも同年初秋には確実に蔓延していたと結論づける」と論じている。
この報告書に関するニュースは、本稿を含めて事前にデータ提供のあった世界中の各種メディアが、2021年10月5日午前4時(日本時間)に一斉公開することになっている。欧米のテレビ局や新聞社はもとより、日本でも幾つかの主要メディアが事前にデータ提供を受けている。
このデータは、解釈によっては国際社会に非常に重大な影響を与えうる内容が含まれている。どういうことか?
WHOへの報告によると、中国政府が武漢で新型コロナウイルスの症例を初めて確認したのは、2019年12月8日だ(参照)。また、中国政府がWHOの要請に基づき、武漢で特定された「原因不明のウイルス性肺炎」に関する情報を始めて提供したのは、2020年1月3日である(参照)。
しかし、もしこの報告書が示す通り、その半年近く前から武漢市周辺の複数施設においてPCR機器の調達が急増していたとすれば、少なくとも中国政府の公式発表より半年から数カ月前から、現地ではPCRを使わなければいけないなんらかの事態が生じており、それが新型コロナウイルスが広がる兆候であったかもしれない、という仮説も成り立つからだ。
人類史上最悪クラスのパンデミックとして、現在も世界中で猛威をふるい続ける新型コロナウイルス。その感染拡大の兆候が、国際社会で半年近くも共有されていなかったのだとすれば、中国政府への視線は厳しくなりうる。「中国政府が迅速に国際社会と情報共有をしていれば、各国は初動を早めて封じ込め政策に着手することができた。そうすれば、コロナウイルスが世界中に拡散し、ここまで長期化するパンデミックとなることを未然に防ぐことができたのではないか」という論調に繋がるからだ。
もちろん、仮説はあくまでも仮説である。そもそも、このデータの信頼性はどの程度のものか。具体的にどのような数字が含まれており、それをどう解釈すべきなのか、疑問を抱く読者は少なくないだろう。
筆者は、今回のデータ収集を行った、もはや「民間インテリジェンス会社」と言っても過言ではない実績を残す「Internet 2.0」社から、事前にデータへのアクセス権を特別に付与してもらい、日本での第一報として本稿を執筆している。
本稿では、まず今回のデータ収集を行った「Internet 2.0」の業績と信頼性について検討する。次に、このOSINT調査でどのようなデータが実際に提示されているのかを説明する。そして、このデータを解釈する上で注意すべき点と、筆者による評価、および今後の課題を述べる。さらに、本調査が国際社会に及ぼす影響について考察し、最後に我々が本件から学ぶべきことは何なのかについて検討する。
今回の報告書を執筆したInternet 2.0は、豪州のサイバーセキュリティ会社だ。2019年に起業したばかりで比較的小規模な民間会社だが、米国や豪州の政府・軍・諜報機関などでサイバーセキュリティに携わってきたメンバーが多く所属しており(参照)、アドバイザリーボードにはFBI、NSC(国家安全保障会議)、米国務省などでサイバー担当の政府高官を歴任してきたクリストファー・ペインターらが名を連ねている。
過去一年間の活動からも、社会的に大きい実績を残していることが確認できる。というのも、Internet 2.0は学者やアクティビスト等から提供のあった中国関連データの信憑性確認やデータ分析を多く行い、その結果はいずれも世界各国の主要メディアにより報じられてきているからだ。
例えば、2020年9月には、中国国営企業傘下である「中国振華電子集団」が欧米の要人情報約240万人分を収集していたことを、米国のワシントンポスト紙(参照)や英国のガーディアン紙(参照)等が報道した。日本でも安倍晋三・元首相を含む政治家や企業経営者、暴力団組員がリスト化されていたと読売新聞が報じている(参照)。この「海外重要情報データベース(OKIDB)」と名付けられたファイルは当初、データの破損が生じていたが、データの部分的復旧と信憑性確認、そして分析をInternet 2.0が手掛けている。
2020年12月には、筆者が経済安全保障アドバイザーを務める(参照)「対中政策に関する列国議会連盟(IPAC)」(参照)が入手した、上海を中心とした200万人弱の中国共産党員名簿について、豪州のオーストラリアン紙等が報道した(参照)。このデータの信憑性についても、Internet 2.0が確認している。
この件については、日本でも報道があり、この名簿に記載されている人物の所属として上海の日系企業の関連組織が300近くあり、約5000人の社員が掲載されていると日本経済新聞が分析(参照)している。また、上海の日系企業約100社で200以上の中国共産党党支部や支部委員会が設けられていたことも、共同通信が報道している(参照)。
直近では、筆者が本連載の論座「ハッキングされた上海公安部データ 垣間見えるデジタル・パノプティコン化する中国」(2021年06月10日公開)で取り上げた、中国の上海公安部からリークされた「ウイグル人テロリスト」と名付けられたデータベースに日本人895人のデータが掲載されていた件についても、Internet 2.0からデータ提供を受けている。本件について、日本では朝日新聞(参照)、豪州ではオーストラリア放送協会=ABC(参照)、英国ではテレグラフ紙が各国にて第一報を出している(参照)。
このように、Internet 2.0はサイバーセキュリティ会社でありながら、政府の諜報機関顔負けの役割を果たしてきた「民間インテリジェンス会社」として特徴づけられる。そして、中国関連データの信憑性の確認やその分析において、一定の実績を残してきたと言えるだろう。
Internet 2.0が今回まとめた「中国武漢市PCR調達報告書」で提示されているデータは、今まで紹介してきた事例のように、他の機関等からInternet 2.0に提供されたものではない。Internet 2.0に所属する、豪州や米国、英国の国籍を持つ「AUKUS調査チーム」の4人が「オープンソース」から独自に収集した、まさしくOSINTの努力の賜物と言えるべきデータである。
調査チームは今回、「bidcenter.com.cn」という、2007年に開設された中国公共機関の入札情報を収集する情報集積サイトに着目した。このウェブサイトは公共調達への入札を希望する民間企業向けの検索サービスであり、誰もがアクセスすることができる。
このオープンソースを使って、調査チームは2007~19年の間に出された調達案件のタイトルと概要に「PCR」という単語が入っているデータ1716件を抜き出した。これらを一つ一つ精査し、最終的に武漢のある湖北省の調達案件507件を特定。これらをそれぞれ「公示日」、「発注機関」、「落札者」、「落札価格」、「調達したPCR機器の種類」など22項目で整理したデータベースを作り上げた【下図・図1】。
なお、この507件に関してはそれぞれ、調達案件情報が掲載されていたオリジナルページのURLと、消されてしまった時のためにアーカイブしたページのURLが双方記録されており、後から第三者が検証できるようになっている。
また、本報告書で示されている日付はいずれもPCR機器調達案件の「公示年・月」である。この後、この報告書から抜粋したグラフを多く紹介するが、いずれも現地で「追加のPCR機器が必要である」と判断される事象が生じたのは、実際にグラフで示されている「公示月」より少し前であろうということにも留意されたい。
この報告書では、出した結論の確からしさを示す度合いとして「confidence(確度)」という単語が頻繁に使用されている。これは欧米のインテリジェンス分析官が良く使う言い回しで、一般的に「High confidence(高確度)」、「Medium / moderate confidence(中確度)」、「Low confidence(低確度)」の三段階で説明される。
多分に主観的な分類にはなるが、「高確度」は質が高いと判断できる情報源が複数ある場合、「中確度」は質が高いと判断できる情報源が一つしかない場合、「低確度」は信憑性の低い情報しかない場合、というような区別がされている。本稿を読み進めるうえで念頭においていただきたい。
報告書はまず、湖北省の調達案件506件のデータ(1件は案件公示年が2019年だが落札日は2020年なので除外)から「PCR機器落札総額」を年別で分け、「発注機関の種類」で色分けしたグラフ【下図・図2】を提示している。
このグラフから読み取れることとして、報告書はまず、2019年にPCR機器の調達が大幅に増加している点を指摘している。
2015~2018年の間に落札額は右肩上がりに増えてはいるが、2017年には2910万元(約4.9億円)、2018年には3670万元(約6.2億円)であったのが、2019年には6740万元(約11.5億円)まで一気に上昇。2017年と2018年を足し合わせた額よりも、2019年の落札額が多かったことを挙げ、「例年の増加傾向以上の不自然な増加幅となっている」と分析している。
また、2019年のパターンが変則的であることを示すデータとして、発注機関の種類について言及している。具体的には、「病院(薄緑)」の落札額が例年とほぼ変化がないのに対し、2018年までほぼ購入実績がなかった「動物疾病予防管理センター(茶)」と「疾病予防管理センター(赤)」の落札額が急増していること、「大学(黄)」の額も前年に比べて2倍近くに増えている点に注目している。
報告書では次に、2019年の中国湖北省におけるPCR落札データを月別に整理して分析する【下図・図3】。その結果、例年のパターンから逸脱した増加傾向が見られ始める月として、2019年5月、7月、9月の3カ所を特定している。
【図3】を見ると分かるように、2019年5月には「疾病予防管理センター(赤)」や「人民解放軍(緑)」による調達量が増えている。報告書はこのデータを根拠に、コロナの初感染が生じた可能性がある最も早い時期が5月であると分析している。
さらに、2019年7月からは、「中確度」で例年とは異なるPCR調達の大幅な増加に向けた傾向が見られ始めると報告書は指摘。2019年は7月から10月にかけて落札額が増加し続けているが、これは2007年から2018年の月別落札額【下図・図4】からすると、明らかに逸脱したパターンであると判断している。特に、「動物疾病予防管理センター(茶)」と「疾病予防管理センター(赤)」のパターンの違いが顕著であると強調している。
なお、報告書自体に直接記載はないが、2019年に近い年である2018年と2017年の月別落札パターンについて、筆者が補足資料より抜き出したところ、これらも同様に2019年とは異なる調達パターンとなっていることを確認できた。【下の図5・6】
続いて、2019年9月から武漢科技大学のPCR機器購入が急増していることを、本報告書は指摘する。
【上図・図7】は、武漢科技大学に限定したPCR機器の発注データだ。2018年までPCR機器の発注はほぼ無かったが、2019年に急増している様子が見て取れる。
さらに【上図・図8】は、武漢科技大学が2019年に発注したPCR機器を月別に整理したグラフだ。武漢科技大学は2019年5月より調達を始め、9~10月に多額の発注をしていることがうかがえる。
報告書は、この大学が病院8カ所と疾病予防管理センター10カ所と提携関係があることに着目。2019年の夏から秋にかけて、武漢の公衆衛生当局者がコロナへの対応を迫られていたのだとすれば、武漢科技大学が初期対応に関与する施設であったであろうことを「中確度」で結論付けている。
以上の月別トレンドを総合し、報告書はこうした動きについて、「中確度」で「大規模なPCR検査を必要とする新たな事象が発生し、それに対処するための調達であったと結論付ける」と分析している。
この報告書は最後に、湖北省以外の地域に関する簡易調査データも紹介している。もし中国全土において2019年のPCR調達額が軒並み増加しているのであれば、湖北省で2019年に調達額が急増していたことの重要性は薄れてしまうからだ。
なお、Internet 2.0が今回、詳細にデータベース化したのは、あくまで湖北省だけであり、他の地域に関しては調達案件タイトルに「PCR」が入っていた案件の落札総額を年毎に抜き出した簡易データとなっている。それゆえ決して完璧とは言えないが、一つの参考データと見なすことができよう。
【上図・図9】は湖北省以外の中国の主要地域の年別PCR落札データだ。この図を見ると、【図2】で示されていた湖北省と同じように、2019年の落札額が例年より大幅に伸びているのは北京だけであることが分かる。その他の中国主要地域の2019年落札額は、例年とほぼ同水準だ。他地域との比較を通じて、湖北省の年別調達パターンは、中国のその他の主要地域と異なっていることが確認できると、本報告書は指摘している。
以上、「2019年に湖北省のPCR機器調達が大幅増加していることは変則的である」という議論の説得力が強まったと言えるだろう。
報告書の解釈に入る前に、いくつか留意すべき点を述べたい。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください