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「投票日だけ主権者」の私たち~イニシアティブ制度による政治参加を(上)

国会の多数派がすべてを牛耳る政治から、市民政治への転換を

今井 一 ジャーナリスト・[国民投票/住民投票]情報室事務局長

権力政治が織りなすドラマの見物人

 菅義偉首相の辞任表明(9月3日)から1カ月にわたり、新聞・テレビなどメディアは1日も欠かすことなく連日、自民党総裁選絡みのネタを発信し続けた。とりわけ、テレビの情報番組やワイドショーは報道番組以上に時間を割き、芸能ネタを扱うかのように候補者4人の動向を紹介。そこでは「辺野古」「森友」「桜」といった言葉はほとんど発せられなかった。

 「高市氏を支援した安倍氏は、岸田氏と取引してキングメーカーに」

 「長老からの圧力か。河野氏を支持していた議員の相当数が投票日直前に離反する」

 「岸田新総裁は安倍氏への配慮から高市氏を政調会長に起用する」

 「岸田氏、幹事長に据えた甘利氏が安倍、麻生両氏との『緩衝材』となることを期待」

 ここに示した通り、披露されるネタはボス同士の思惑、確執、駆け引きといったものがほとんど。お馴染みの政治評論家や政治部長は、権力志向型政治の側面のみに着目し、権力闘争の裏と表を訳知り顔で解説。そんな彼らにとって私たち国民は、権力政治が織りなすドラマの「観客・見物人」でしかない。主権者なのに。

 こうした政治ドラマは総裁選のあと衆議院解散総選挙という演目に変わってなおも続く。ただし、総裁選時とは異なり、私たちはただの観客・見物人ではなく議員を選ぶ投票に参加することができる。しかもそれは4年ぶりの政権選択選挙であり、観客席から立ち上がって主権者としての威力を発揮する機会がやってきたのだ。

選挙は大切だけれど

 わが国の場合、地方政治とは異なり国の政治は「改憲の是非」を国民投票で決すること以外、原則としてすべて代表民主制(間接民主制)によって事を決する。立法・行政・司法の三権のうちの立法府(国会)の議員を選ぶのは私たちであり、その議員の多数派が行政府(内閣)の長となる内閣総理大臣を選出するのだから、選挙がとても大切だというのは言うまでもないことだ。

 新聞やテレビに登場する識者やキャスターらは、例によって「棄権しないで投票に行こう」「政治を任せられる人を選ぼう」「あなたの一票で社会を変えよう」などと国民に呼びかけている。選挙の度ごとにやるルーティンだ。

 そういう呼びかけは学校での主権者教育の場でも行われており、近年、模擬投票を行う学校が増えつつある。もちろん、それ自体は決して悪いことではない。

 だが、そうした「投票への参加」に終始する呼びかけに私は疑問を抱いている。とにかく投票に行って代表(議員)を選び、あとは観客席にいて彼らにお任せしましょうということになってはいまいか。

 ソ連を盟主とするかつての旧社会主義国のような独裁体制でない限り、高い投票率は、代表民主制における選挙というツールが多くの人々に肯定され活用されている証だといえる。ただし、高投票率になりさえすれば横暴で汚れた政治の刷新や国民主権の深化がもたらされると考えるのは幻想でしかなく、ときどき実施される選挙の際、投票所に足を運んで一票を投じるだけでは、まったく不十分なのだ。

 選挙に参加するだけであとはお任せという(議員にとって)都合のいい主権者、「不断の努力」(憲法12条)を怠る主権者となってはいけない。

 私たちが主権者として持つ政治的権利は「選挙権」だけではなく、自ら立候補する「被選挙権」もある。あるいは、政府を相手取った「違憲訴訟」も起こせるし、国会議事堂を取り囲む100万人デモを決行することもできる。また、地方政治の場合は首長・議員の解職や議会の解散を求めたり、条例の制定・改変を求めたりする直接請求権を行使することもできる。

 ただし、国民主権を形骸化しないために決定的に必要な「国民発議・国民拒否」といったイニシアティブの制度が日本にはない。それについては、この記事の後段で詳細に記す。

政治の場から外される主権者

 国政選挙で判断、選択を誤ると、行政府や立法府が愚かなこと、汚いことをしても、私たちは次の選挙の投票日が来るまでは観客席に追いやられ、閣僚や議員に対して主権者として実効性のある働きかけができない。

 「アベノマスクなんて馬鹿すぎる」「加計、森友や桜の真相を明らかにしろ」「3.11から学び、原発は稼働するな」などとSNSや集会でヤジを飛ばしたり怒号を浴びせたりしたところで、権力者はその声を汲みはしないのだ。

 そして、たぎらせていた彼らへの怒りは次の選挙までの間に半減し、たいていの人は不信感を募らせながらも「仕方ない」とあきらめる。私たちは戦後70年余り、そういった営みを繰り返してきた。

 政治学者で東京大学教授だった辻清明は、「60年安保」の直後に書き上げた著書『政治を考える指標』(岩波書店刊)でこう述べている。

 「たとえ、個々の政策や法律に対して激しい批判や反対運動がおこなわれても、ひとたび国の方針として決まると、国民のなかにあきらめに似た無力感が漂い、一種の挫折感に支配されやすい傾向がみられる……ぎゃくにこうした精神状況が予見されるからこそ、政治指導者の側は、国家の安全とか秩序の維持とかに名を借りて、無理なことでも強行し、権力の上にあぐらをかく」

 この本の刊行からすでに61年が経過したが、こうした傾向は弱まるどころか強固に常態化している。「コロナ禍での開催反対」という7割を超す世論を押し切って開催された東京オリンピックだが、開催後、反対していた人の半数近くが「開催してよかった」に心変わりした事実は、辻氏が指摘したことの典型例といえる。

 事は五輪開催に限らない。着々と進む各地の原発再稼働も同様の傾向、流れになりつつある。今後、政権を担うのが自民・公明であれ立憲・共産であれ、国政が代表民主制一本で運営される限り「無力感が漂い、挫折感に支配される」現象はこの先も続くことになるだろう。

衆愚観に覆われた主張に反駁せよ

 ノーム・チョムスキーは、自著『メディア・コントロール』(集英社刊/鈴木主税訳)の[観客民主主義]の項でこのように語っている(括弧内は筆者による付記)。

 「民主主義社会における彼ら(大多数の国民のこと)の役割は、リップマンの言葉を借りれば、『観客』になることであって、行動に参加することではない。しかし彼らの役割をそれだけに限るわけにもいかない。何しろ、ここは民主主義社会なのだ」

 「そこでときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。『私たちはこの人をリーダーにしたい』、『あの人をリーダーにしたい』というような発言をする機会も与えられるのだ。何しろここは民主主義社会で、全体主義国家ではないからだ。これを選挙という。
だが、いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。『とまどえる群れ』は参加者とは見なされていない。……この背景には一つの論理がある。至上の道徳原則さえある。一般市民の大部分は愚かで何も理解できないということである」

 事の本質を衝くとはこういう言説だ。「国民発議・国民拒否」といったイニシアティブ制度を備えない代表民主制のみの政治参加としての「選挙」というものを、チョムスキーはこう捉えている。

 前述の「棄権しないで投票に行こう」と呼びかけるキャスターや主権者教育を担う教員は、彼の考えに賛同できなくとも理解したほうがいい。

 念のために言っておくが、チョムスキーは「観客民主主義」の現実を述べているだけで、市民は何も理解できないから政治的決定の参加者にしてはならないなどと考えてはいない。

選挙原理主義に陥るな

 民主政の源とされる古代ギリシアの都市アテナイでは、法案の提出権を持つ評議会や行政執政官、あるいは司法職を選挙ではなく「持ち回り」および「くじ引き」によって男性市民の中から選んでいた。当時を生きたアリストテレスも選挙の非民主性を指摘しつつ、「くじ引き」で選任することの公平性、合理性を説いていた。

 そして、こうした考えは現在に引き継がれており、実際に「くじによる代表者の選任」を行なっている国や地域がある。

 フランスでは、「経済社会環境評議会」の議員の一部を「くじ」によって選んでいるし、アイスランドでは憲法改正を議論するための委員(1000人)を市民の中から「くじ」で選んだ。

 またスイスでは市民グループが、国民議会(下院)の議員選出方法として「くじ引き」の採用を提案。ベルン州にあるビール市では、市議会議員の半数をくじ引きで選ぶよう求めている。
つまり、代表民主制での代表決定を選挙に限るのはおかしいし、[選挙=民主主義]と単純化するのもまちがっている。

 さて、それでもなお「一般市民の大部分は愚かで何も理解できない」から、くじ引きではなく賢い代表を選んですべてお任せしたほうがいいと主張する人は大勢いる。そういう人たちに私はこう反駁する。

 安倍政権が行なったいわゆる「アベノマスク」の全戸配布だが、これを使用した国民は全体の5%にも満たない。 

 余りの愚かさに、多数の国民が憤ったり呆れたりしたが、この歴史的な失政は「衆愚」について論じる際、説得力のある材料になる。

 「一般市民の大部分は愚か」と思っている政治家、官僚や学者、言論人は数多いるが、莫大な公費(つまり税金)を使って「アベノマスク」のような拙い製品を造らせ、あのタイミングで日本の全戸に郵送配布しようと考える一般市民はこの国には存在しない。それをして利益を得られる人、経費無駄遣いの責任を問われない人以外は。

 また、あんな拙い製品を(公費による買い上げ契約もなく)1億枚以上製造してあのタイミングで販売する民間企業もない。そんなことをしたら、まったく売れずに莫大な額の損失を出して倒産に追い込まれるのは分かりきっているから。

 あんなにも愚かなことを思いつき、しかも何百億もの金を使って実行したのは、自分たちが市民よりはるかに賢いと思い込んでいる官僚や閣僚で、彼らはその過ちを認めさえしない。傲慢な無謬論者と呼ばせてもらおう。

 原発政策に関しても同じで、電力会社や推進派の政治家、立地自治体のボスたちは半世紀にわたり「専門的な知識が必要な原子力発電について素人が口を出すな」「国が信頼している学者や専門家が『安全だ、大きな事故は起きない』と言っているのだから大丈夫」などと喧伝し、カネと脅しで地元住民らを支配。3.11から10年が経過した今もまた同じようなことを言って再稼働を進めている。

 巨額の交付金をばらまき、日本国中に原発を拡散する政府や電力会社のお先棒を担いできた学者・専門家と少数派ながら科学的な知見を備え常識的な判断をしていた反対派市民のどちらが愚かであったかはすでに明白だ。

 「選択的夫婦別姓」や「同性婚」、「入管行政」などについてもそうで、国会議員や官僚が私たち市民より人権感覚を有し、優れた判断を行なっているとは到底思えない。

イニシアティブ制度の導入を

 前述のチョムスキーの指摘通り、民主代表制での「選挙」というツール一本では、「選挙と選挙の間」の日々行われる政治的決定の場に私たちは係われず、観客民主主義に陥ることが避けられない。これは個々人の情熱の問題ではなく、主権者として政府や国会に実効性のある働きかけをなし得る制度が整っているか否かの問題だ。

 そして、その制度・仕組みこそ

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