「政治は引き算が大事」 麻生氏のダメージコントロールは奏功したのか?
2021年10月21日
ふた昔前の2002年、河野太郎氏は父である洋平氏の生体肝移植のドナーとなった。同じ年に長男が生まれ、「一平」と命名した。
自民党発足時、党人派の雄として鳴らした祖父の河野一郎氏から並べると、河野家は「一郎、洋平、太郎、一平」と続くことになる。これを冷やかしたのが、同じ「太郎」という名前を持つ麻生太郎氏である。
「やっぱり、人の子だな。息子に親父の名前から平の一字をもらうなんて」
河野太郎氏は即座に否定してみせた。
「全然違いますよ。平は平でも(選挙地盤である)平塚の平です」
その話を聞いた時は、いつものへそまがりが出たかと思ったが、今となってみれば、「平」よりも「一」の方に意味があったと思わないでもない。「隔世遺伝」とでも言うか、太郎氏はリベラル志向が強かった父・洋平氏よりも、バリバリの保守政治家だった一郎氏の方に惹かれていたのではなかったか。
ともに外相をつとめた父と子だが、中韓両国への姿勢を見ても、融和的な「洋平」と強硬な「太郎」は明らかに違った。かたや「一郎」は筋金入りの強面の保守。なにしろ、経済優先主義に立つ吉田茂首相に反目し、改憲を掲げた鳩山一郎首相を担いで、「横紙破り」とまで評された人物だ。
女系天皇問題を巡る発言などで保守派から批判されたとはいえ、少なくとも今回の自民党総裁選で「太郎」が自己規定しようとしたものは明白だ。「皇室と日本語」を「日本の礎」に挙げて総裁選に立ったのは、明らかに「保守主義」者である。
それにしても、麻生氏と河野氏、2人の「太郎」の因縁は深い。とりわけ、総裁選を巡る歴史の符合は不思議なほどだ。
麻生氏が若手から中堅にさしかかる頃、自民党の派閥「宏池会」で行動を共にしたのは河野洋平氏だった。池田勇人・元首相が創設し、保守リベラルの伝統を持つ派閥で、当時は宮沢喜一元首相が率いていた。
麻生、河野両氏の関係は、まさに「吉田の孫が河野一郎の息子を担ぐ」という因縁だった。当時、派閥の主流だった加藤紘一氏への対抗心が、二人を結び付けたのか。1993年に自民党の政権下野後、「河野総裁」を実現させたものの、首相の座を目前に再選を賭けた総裁選で、河野氏は不出馬に追い込まれる。
その後、2人は宏池会を割って河野グループを結成する。そして、20年前の2001年春、今回と二重写しになる総裁選に直面した。
夏の参院選が迫るなか、内閣支持率が急落した森喜朗首相が総裁選不出馬を表明。新総裁を選ぶことに。最大派閥の橋本派が橋本龍太郎氏の返り咲きを狙い、各派の糾合を図ったが、それを批判して小泉純一郎氏が立ち、乱戦となる。政党支持率は自民党が民主党の倍あった。
この状況をどう見るか。なお離反せぬ自民党の支持層は、首相交代による局面転換を望んでいよう。それなら、旧態依然とした派閥政治は選挙現場の期待を裏切るものでしかない。
13人しかいない派閥の領袖でもない麻生氏が、河野洋平氏を差し置いて20人の推薦人を集めて立ったのは、そうした状況認識があったからに他ならない。事実、「小泉旋風」で総裁選を制した小泉首相は夏の参院選で圧勝し、党の危機を救う。総裁選で史上最低の31票だった麻生氏も、党政調会長となり首相候補の地歩を固めた。
その時の体験が、菅義偉前首相の不出馬表明により乱戦模様となった今回の総裁選で麻生氏の脳裏に浮かばなかったはずがない。しかも、派内の立場は20年前の河野洋平氏に重なり、党全体では当時の橋本派など権力派閥の側に近い。
従って、河野太郎氏の立候補の是非を含めて、麻生氏の状況認識はこうなった。
派閥の引き締めで意中の候補を勝たせても、それは1年前の菅首相誕生の再現に過ぎない。世代交代の芽すら派閥が摘むのなら、党の支持層の失望、離反は避けられない。それが衆院選敗北と政権交代に直結すれば、自らが副総理・財務相として参画した安倍晋三、菅両首相による約9年間の政権が全否定される。今回の最悪手は、派閥が前面に立つ総裁選だーー。
総裁選を巡り、二階俊博幹事長を交代させるだけで、菅首相の「無投票再選」を全面支援しようと思うほど、麻生氏の危機感は薄くはなかった。
だからこそ、菅氏が不出馬を表明し、河野太郎氏が出馬を巡り相談して来た際、麻生氏は「立つ時は自分一人で決めるべきだ」と告げた。河野氏が石破茂氏との共闘に当初悩んだ時には、「政治は足し算だけでなく、引き算が大事だ」と、目先の票集めが及ぼす悪影響を指摘したと聞く。派閥の若手議員らに意見を聴いた際も、特定候補への支持を求める代わりに、「自民党の支持率がなお堅調なことだけは頭に入れておいてほしい」と頼んだという。
これら三つの言葉に麻生氏がこめた、もう一人の「太郎」に継ごうとした状況認識は、明らかだろう。
総裁選の結果、河野太郎氏は20年前の小泉純一郎氏にはなれなかった。河野陣営に駆け込み「党風一新」を掲げて派閥を仮想敵にしようとした小泉進次郎氏のやり方も、父の純一郎氏とそっくりだったが、こちらも不発に終わった。自民党の大勢は、旧体制を破壊する「変人」の改革性よりも、新たな秩序を建設する「常識人」の安定感の方を求めたようだ。
麻生太郎氏は岸田政権発足に伴い、9年近く務めた副総理・財務相を退き、党副総裁に転じた。総裁選期間中から自民党の政党支持率は10ポイント前後上昇し、麻生氏が狙ったダメージコントロールは功を奏したかに見える。
だが、麻生氏自身の副総裁就任をはじめ岸田首相の内閣・党人事には「安倍・麻生体制」の清算なき追認との批判が消えない。各メディアの世論調査でも、岸田新政権の内閣支持率は40〜50%台にとどまった。衆院選の結果で本当に「勝者」だったか否かを、改めて判定しなければなるまい。
政治家の一生の勝敗は、一時のそれでは測れない。小泉純一郎氏とて、「小泉旋風」の当選する3年前の1998年の総裁選では、所属する森派の数さえ割り込み、小渕恵三、梶山静六両氏の後塵を拝する3位に沈んだ。永田町で「小泉は終わった」と盛んに喧伝されたが、本人は「自民党がコイズミに追い付かなかった」と嘯(うそぶ)いた。
挫折にもブレない姿勢が、時代を呼び込む前提条件になるのだろう。そういえば、麻生氏の祖父である吉田茂元首相もまた、敗戦後の日本の講和・独立を期す上で「戦争で負けて外交で勝った例は歴史に幾らでもある」と言った「グッド・ルーザー」(良き敗者)であった。
もとより、麻生氏の頭には「大宏池会構想」がある。自民党がより保守色の強い派閥とよりリベラルな派閥の二つに収斂(しゅうれん)していき、その二大派閥による「疑似政権交代」でもって自民党政権の長期化を図る構想である。
宏池会の嫡流を継ぐ岸田首相の登場を、その起爆剤とみてもおかしくはない。今回の総裁選で高市早苗氏を猛プッシュした安倍晋三元首相が二大派閥の一翼を担うべく「清和会」の拡大を狙い、「大宏会」が河野太郎氏を首相候補の一人に抱え込む展開も予想される。
ただし、河野家の先代、「一郎」と「洋平」が果たせなかった首相の座に再び挑戦するうえで、「太郎」にはなにより、「借り物」でない自前の政策体系が必要だろう。総裁選での年金改革案を巡る発言のブレを見れば、準備不足だったのは否めまい。保守かリベラルかといった旧来の物差しでは最適解を見出せないポストコロナの時代である。永田町ではなく、民意に近い場所でもう一度、研鑽を積み直すしかない。
岸田新総裁から党広報本部長を打診された際、河野氏は麻生氏に相談した。迷うことなく、麻生氏は受諾を奨めた。軽量ポストと考えるよりも、足らざる点を考え直す恰好の場所だと思う方が良い、と。
麻生氏にすれば、そこは足し算だ、ということだったのではあるまいか。
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