2021年11月15日
地球の反対側、中米のニカラグアで11月7日、大統領選挙が行われた。勝ったのは左派の現職オルテガ氏だ。再選を禁止した憲法を無理に変え、反体制派の市民を弾圧したうえで選挙に臨んだ。彼が中心メンバーの一人として民主化と不平等の是正を求め武装蜂起したのは1979年だ。
この国は革命の直後、内戦に突入した。危機的な状況だけに、かえって当時の市民は社会改革に燃えた。熱気のさなかの1986年、朝日新聞の中南米特派員として取材に訪れたさい、首都マナグアで奇妙な体験をした。
一瞬、自分がいる場所が信じられなかった。「保守の砦」と言われたカトリックの教会でまさかこの歌を聞こうとは……。
「ウィ・シャル・オーバーカム」。日本では「勝利を我らに」の題名で知られる。プロテスト・ソング(抵抗歌)の代表のような歌が、静謐なはずの教会に大声でこだまする。
とはいえ、れっきとした讃美歌だ。教会で歌われても、実は違和感はない。手元にあり現在も出回っている『讃美歌21』(日本基督教団出版局)の471にも、「勝利をのぞみ」の題で歌詞が出ている。
教会の聖歌隊といえば白い服に身を包んだ幼い子どもたちが普通だ。しかし、目の前の「聖歌隊」はジーンズにポロシャツ、裸足にサンダル履きで登場した、小学生から高校生くらいの若者たちだ。ピアノでなくギターの伴奏で、それも定番の清らかな讃美歌ではなく、なんと「抑圧に抗して闘おう……」と力を込めて歌う。
祭壇に立った神父が説教を始めた。「キリストは抑圧に抗して闘った。我々も独裁政権に勝利した。しかし、米国は傭兵を攻め込ませた。我々の闘いはすべての人民に自由をもたらすための闘いだ。キリストが導く道だ」。バチカンの本部が聞いたら肝をつぶすだろう。
参列者に米国人がいるのを知ると、神父は合唱を呼びかけた。彼の指揮でホールに響いたのが「ウィ・シャル・オーバーカム」の歌声だ。
本連載「世界の歌を探検する~民族固有の魂を求めて」【米国編】はこれで終わります。以前の連載【欧州編】もあわせてお楽しみください。
ニカラグアでは1979年に左翼ゲリラが独裁政権を倒し、革命を成功させた。しかし、左翼を嫌うアメリカ政府は独裁政権の残党を組織して右派ゲリラに仕立て、隣国からニカラグアに攻め込ませた。ここから内戦に突入していく。
左翼ゲリラといってもイデオロギー一本やりの革命ではない。民族の自立と自由、何よりも貧しさから抜け出し貧富の差をなくそうとしたにすぎない。それを米国が武力でつぶしにかかり、東西対決の代理戦争と言われる悲惨な内戦になったのだ。
中南米は大多数の人々がカトリックの信者だ。過去の教会は権力側に立ち、政権に対する民衆の怒りをなだめる役割を果たした。しかし、1960年代以降の中南米では若手の神父が「解放の神学」という革新的な教義を信奉し、社会改革や反米闘争の前面に立った。体制を変革するために銃を取り左翼ゲリラの司令官になった神父も現にいる。
私もその列に並んでみた。ドラムの強烈な響きと手拍子の中、「解放のために」と題した歌を若者たちが歌う。最後に楽団が「ヤンキー・ゴー・ホーム」と歌う中、信者たちは退場した。
2時間にわたったミサが終わった後、私はウリエル・モリナ神父に1対1で話を聞いた。「キリスト者は右の頬を打たれれば左の頬を出すものだ、と私は聞いているが」と問いかけると、神父は静かに答えた。
「キリスト者、すなわち闘う人々は、神の意志を地上に実現しようとします。神の教えは人間性の実現にあり、その方法は歴史的な条件によります。ガンジーは平和的な手段に訴えました。しかし、ニカラグアではその手段は意味をなさなかった。事態が平和的手段を許さない場合、私たちは武器を用いても闘います」
そして言った。「革命に背を向けることは、人々を裏切ることです。神に仕える者に、そのような権利はありません」。間近で接すると気さくで、柔らかいまなざしだ。
この教会が出版している聖歌集をめくると、「キリストは我らに、抑圧階級でなく迫害された人民とともにあれ、と教えた」という歌詞があった。
彼はキリスト教プロテスタントのメソジスト派の黒人牧師だった。歌の内容は「世界は巨大な戦場のようなものだが、くじけずに立ち向かえば、いつか克服する」というものだ。
一人称の「I」が「私たち」を指す「We」に変わるのは、労働組合運動で歌われるようになったからだ。
1909年に発行された「鉱山労組ジャーナル」の1面に組合員が投稿した長い手紙が載った。「ストライキの打ち合わせのさい、私たちはまず『ウィ・ウィル・オーバーカム』の歌を歌っています」と。一人ではなくみんないっしょなので、「I」を「We」に替えたのだ。
1945年から46年にかけて、米国東部のサウスカロライナ州でタバコ労働者が待遇改善を求めてストをした。日々のピケの締めくくりに黒人女性のルシール・シモンズが提唱したのが、「ウィ・ウィル・オーバーカム」を歌うことだった。彼女は労働者たちが冷えた身体をたき火で温めているところに来て、この歌をゆったりと歌った。ともすればくじけそうになる長く寒い冬に、闘う意志を保ち続けるためには歌が必要だったのだ。
そのいきさつはアレック・ウィルキンソンによるシーガーの伝記『The Protest Singer』(プロテスト・シンガー=抵抗する歌手、2009年)に詳しく書いてある。
この歌が全米規模で広がったのは、黒人の人権を保障せよという公民権運動と結びついてからだ。
南部のアラバマ州モンゴメリーといえば公民権運動が燃え上がった地だ。
市営バスの座席が白人用と黒人用に分けられていた1955年、42歳の裁縫師の黒人女性ローザさんが白人に席を明け渡すことを拒否して逮捕された。それが市営バスの乗車拒否の運動、さらにアフリカ系アメリカ人の権利を求める社会的な運動に発展した。
運動の先頭に立ったのがモンゴメリー市の教会にいた26歳のマーティン・ルーサー・キング牧師だ。
1959年になると、この歌は公民権運動の政治集会や街頭デモで歌われた。
1964年、公民権法が米議会で可決、成立した。これで黒人の参政権は保証されたものの、米国南部では白人が黒人の投票登録を邪魔した。
その夏に起きたのがフリーダム・サマー運動だ。北部の白人学生1000人が黒人の有権者運動を支援するため南部のミシシッピ州に大挙して行った。うち白人学生ら3人が警察に逮捕されたあと行方不明となり、やがて死体で発見された。人種差別主義者に殺されたのだ。
3月21日には、3200人がセルマから州都モンゴメリーまで5日間、投票権法の成立を求めて80キロの道をデモ行進した。シーガーもキング牧師に招待され4日目から参加した。武装した連邦軍兵士が見守る中、みんなで「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌いながら歩いた。
州都に到着するとキング牧師は2万人以上を前に演説し、投票権法の即時成立を訴えた。人びとのこの力を背景に、投票権法はようやく議会を通過した。
キング牧師は説教の中でしきりに「ウィ・シャル・オーバーカム」と唱えた。この年のハリウッドでの集会ではこの歌を歌うように提唱したあと、「いかなる嘘も永久に続きはしない」「真実はいったん地に落ちたあとも再びよみがえるのだ」など、歴史に残る言葉を述べた。
そのキング牧師は1968年4月に暗殺される。4日前の最後のミサでも「ウィ・シャル・オーバーカム」と語った。葬儀に集まった5万人以上もの人々がこの歌を合唱した。
同じころ全米を揺るがしたのがベトナム反戦運動だ。ここでも歌われた。米国だけではない。欧州でもそうだったし、日本でも
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