メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[4]より崇高な世界を創ろうとする人類の魂~「ウィ・シャル・オーバーカム」

伊藤千尋 国際ジャーナリスト

米公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の記念碑。首都ワシントンにあるリンカーン記念堂と独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンの記念堂の間に2011年、建設された。キング氏は1963年、リンカーン記念堂前で、有名な「I have a dream」を含む演説をして幅広い共感を呼んだ(Sabira Dewji/Shutterstock.com)

内戦下のカトリック教会に響いた「抵抗の歌」

 地球の反対側、中米のニカラグアで11月7日、大統領選挙が行われた。勝ったのは左派の現職オルテガ氏だ。再選を禁止した憲法を無理に変え、反体制派の市民を弾圧したうえで選挙に臨んだ。彼が中心メンバーの一人として民主化と不平等の是正を求め武装蜂起したのは1979年だ。

ニカラグアのオルテガ大統領を描いた街頭の壁画=2021年11月3日、マナグア、市民提供
 これをサンディニスタ革命という。独裁者を追放し貧富の差をなくそうと主張した革命は民衆から支持され成功した。しかし、新政権から穏健派が去り、強権的なオルテガ氏が政権を握った。再選を繰り返し、今回が5期目になる。選挙前に野党の対立候補を逮捕し反政府デモを武力で鎮圧するなど、今や彼自身が独裁者になった。

 この国は革命の直後、内戦に突入した。危機的な状況だけに、かえって当時の市民は社会改革に燃えた。熱気のさなかの1986年、朝日新聞の中南米特派員として取材に訪れたさい、首都マナグアで奇妙な体験をした。

ニカラグアのサンディニスタ革命成功から5周年の記念日の集会=1984年、首都マナグア、筆者撮影

ジーンズにサンダル履きの「聖歌隊」

 一瞬、自分がいる場所が信じられなかった。「保守の砦」と言われたカトリックの教会でまさかこの歌を聞こうとは……。

 「ウィ・シャル・オーバーカム」。日本では「勝利を我らに」の題名で知られる。プロテスト・ソング(抵抗歌)の代表のような歌が、静謐なはずの教会に大声でこだまする。

 とはいえ、れっきとした讃美歌だ。教会で歌われても、実は違和感はない。手元にあり現在も出回っている『讃美歌21』(日本基督教団出版局)の471にも、「勝利をのぞみ」の題で歌詞が出ている。

 教会の聖歌隊といえば白い服に身を包んだ幼い子どもたちが普通だ。しかし、目の前の「聖歌隊」はジーンズにポロシャツ、裸足にサンダル履きで登場した、小学生から高校生くらいの若者たちだ。ピアノでなくギターの伴奏で、それも定番の清らかな讃美歌ではなく、なんと「抑圧に抗して闘おう……」と力を込めて歌う。

人民に自由をもたらすための闘い

 祭壇に立った神父が説教を始めた。「キリストは抑圧に抗して闘った。我々も独裁政権に勝利した。しかし、米国は傭兵を攻め込ませた。我々の闘いはすべての人民に自由をもたらすための闘いだ。キリストが導く道だ」。バチカンの本部が聞いたら肝をつぶすだろう。

 参列者に米国人がいるのを知ると、神父は合唱を呼びかけた。彼の指揮でホールに響いたのが「ウィ・シャル・オーバーカム」の歌声だ。

説教するモリナ神父。背景にはサンディニスタ革命軍の兵士や民衆が十字架をかつぐ壁画がある=1986年、首都マナグア、筆者撮影
 ここは首都の下町にあるカトリック教会である。八角形のホールの一面に色鮮やかな壁画が描かれている。独裁者に立ち向かう革命軍の兵士と民衆がともに十字架を背負って前進する絵だ。風変わりな教会で、独特な日曜のミサは、このように進行した。

本連載「世界の歌を探検する~民族固有の魂を求めて」【米国編】はこれで終わります。以前の連載【欧州編】もあわせてお楽しみください。

ニカラグアの第1次オルテガ政権当時のダニエル・オルテガ大統領=1989年2月(Rob Crandall Shutterstock.com)

米国につぶされたニカラグアの自立―教会は闘いの前面に立った

 ニカラグアでは1979年に左翼ゲリラが独裁政権を倒し、革命を成功させた。しかし、左翼を嫌うアメリカ政府は独裁政権の残党を組織して右派ゲリラに仕立て、隣国からニカラグアに攻め込ませた。ここから内戦に突入していく。

 左翼ゲリラといってもイデオロギー一本やりの革命ではない。民族の自立と自由、何よりも貧しさから抜け出し貧富の差をなくそうとしたにすぎない。それを米国が武力でつぶしにかかり、東西対決の代理戦争と言われる悲惨な内戦になったのだ。

 中南米は大多数の人々がカトリックの信者だ。過去の教会は権力側に立ち、政権に対する民衆の怒りをなだめる役割を果たした。しかし、1960年代以降の中南米では若手の神父が「解放の神学」という革新的な教義を信奉し、社会改革や反米闘争の前面に立った。体制を変革するために銃を取り左翼ゲリラの司令官になった神父も現にいる。

ニカラグア内戦の前線地帯で出会った政府軍の少年兵=1984年、ニカラグア北部、ホンジュラスとの国境地帯、筆者撮影
 「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌い終えた人々は、手をつないで輪になった。神父の呼びかけで隣り合わせた同士が握手し抱擁する。神父は祭壇の前に並んだ信者に葡萄酒とパンを与える。

 私もその列に並んでみた。ドラムの強烈な響きと手拍子の中、「解放のために」と題した歌を若者たちが歌う。最後に楽団が「ヤンキー・ゴー・ホーム」と歌う中、信者たちは退場した。

「武器を用いても闘う」と神父―迫害された人々とともに

 2時間にわたったミサが終わった後、私はウリエル・モリナ神父に1対1で話を聞いた。「キリスト者は右の頬を打たれれば左の頬を出すものだ、と私は聞いているが」と問いかけると、神父は静かに答えた。

 「キリスト者、すなわち闘う人々は、神の意志を地上に実現しようとします。神の教えは人間性の実現にあり、その方法は歴史的な条件によります。ガンジーは平和的な手段に訴えました。しかし、ニカラグアではその手段は意味をなさなかった。事態が平和的手段を許さない場合、私たちは武器を用いても闘います」

 そして言った。「革命に背を向けることは、人々を裏切ることです。神に仕える者に、そのような権利はありません」。間近で接すると気さくで、柔らかいまなざしだ。

 この教会が出版している聖歌集をめくると、「キリストは我らに、抑圧階級でなく迫害された人民とともにあれ、と教えた」という歌詞があった。

「IからWe」、「ウィルからシャル」へ

メソジスト派の牧師でゴスペル音楽作曲家だったチャールズ・ティンドリー
 この歌は米国で生まれた。原曲はゴスペルの作曲家チャールズ・ティンドリーが1901年に発表した黒人霊歌「I’ll Overcome Someday(アイル・オーバーカム・サムデー)」だ。「私はいつか勝利する」と言う意味である。

 彼はキリスト教プロテスタントのメソジスト派の黒人牧師だった。歌の内容は「世界は巨大な戦場のようなものだが、くじけずに立ち向かえば、いつか克服する」というものだ。

労働者は黒人霊歌の「I」を「We」に替え、冬を耐えた

 一人称の「I」が「私たち」を指す「We」に変わるのは、労働組合運動で歌われるようになったからだ。

 1909年に発行された「鉱山労組ジャーナル」の1面に組合員が投稿した長い手紙が載った。「ストライキの打ち合わせのさい、私たちはまず『ウィ・ウィル・オーバーカム』の歌を歌っています」と。一人ではなくみんないっしょなので、「I」を「We」に替えたのだ。

 1945年から46年にかけて、米国東部のサウスカロライナ州でタバコ労働者が待遇改善を求めてストをした。日々のピケの締めくくりに黒人女性のルシール・シモンズが提唱したのが、「ウィ・ウィル・オーバーカム」を歌うことだった。彼女は労働者たちが冷えた身体をたき火で温めているところに来て、この歌をゆったりと歌った。ともすればくじけそうになる長く寒い冬に、闘う意志を保ち続けるためには歌が必要だったのだ。

ピート・シーガーが「ウィル」を「シャル」に

第2次大戦以前からフォーク歌手として活躍したピート・シーガーは、60年代にプロテストソングのパイオニアとして民を力づけ、公民権運動や軍縮に力を尽くした
 それを耳にしたのが労働組合運動の指導者ジルファ・ホートンだ。シンガーソングライターの草分けのようなピート・シーガーにこの歌を教えたのは彼女である。1947年、シーガーが主宰する「民衆の歌」が発行する「People’s Songs Bulletin(民衆の歌速報)」にもこの題名で載った。

ピート・シーガー のアルバムジャケットから
 シーガーは「ウィル」を「シャル」に替えた。シーガーはふだんの会話でも「ウィル」の場面を「シャル」で言うことが多かった。「シャル」の方が口を大きく開けて発音するから声がよく通るし、「ウィル」の短い「ィ」より「シャル」を発音するときの比較的長い「ア~」の方がドラマチックだからだ、と言った。

 そのいきさつはアレック・ウィルキンソンによるシーガーの伝記『The Protest Singer』(プロテスト・シンガー=抵抗する歌手、2009年)に詳しく書いてある。

「ワシントン大行進」集会で演説するマーティン・ルーサー・キング牧師。「I Have a Dream(私には夢がある)」と述べ、人種差別の撤廃と協和を訴えた=1963年8月

公民権運動のテーマソング

 この歌が全米規模で広がったのは、黒人の人権を保障せよという公民権運動と結びついてからだ。

 南部のアラバマ州モンゴメリーといえば公民権運動が燃え上がった地だ。

 市営バスの座席が白人用と黒人用に分けられていた1955年、42歳の裁縫師の黒人女性ローザさんが白人に席を明け渡すことを拒否して逮捕された。それが市営バスの乗車拒否の運動、さらにアフリカ系アメリカ人の権利を求める社会的な運動に発展した。

 運動の先頭に立ったのがモンゴメリー市の教会にいた26歳のマーティン・ルーサー・キング牧師だ。

1955年に逮捕されたローザ・パークスさんが市営バスの中で受けた言動を体感できるビンテージバスが米国立公民権博物館に展示されている。抗議のためのバス乗車ボイコット運動をキング牧師らが呼びかけると、多くのモンゴメリー市民が応じ、市の財政は大打撃を受けた。約1年後、連邦最高裁は市の人種隔離政策を違憲とする判決を下した(EQRoy/Shutterstock.com)

法成立―それでも止まぬ差別主義者の暴挙

 1959年になると、この歌は公民権運動の政治集会や街頭デモで歌われた。

公民権運動の集会で約30万人を前に「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌うジョーン・バエズ=1963年8月28日、ワシントン
 ピート・シーガーが1963年にカーネギー・ホールで演奏したさいにレコード化された。この年の夏、22歳だったジョーン・バエズが首都ワシントンで30万人を前に「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌った。

 1964年、公民権法が米議会で可決、成立した。これで黒人の参政権は保証されたものの、米国南部では白人が黒人の投票登録を邪魔した。

 その夏に起きたのがフリーダム・サマー運動だ。北部の白人学生1000人が黒人の有権者運動を支援するため南部のミシシッピ州に大挙して行った。うち白人学生ら3人が警察に逮捕されたあと行方不明となり、やがて死体で発見された。人種差別主義者に殺されたのだ。

大統領が議会演説で「ウィ・シャル・オーバーカム」

議会で演説するジョンソン米大統領=1965年3月
 1965年にはアラバマ州セルマの運動が注目された。3月9日、運動の支援に来た白人牧師が地元の白人差別主義者に棍棒で殴られて死亡した。その6日後、ジョンソン大統領が黒人の投票権を保証する立法を求めて議会で演説し、最後を「ウィ・シャル・オーバーカム」と結んだ。

 3月21日には、3200人がセルマから州都モンゴメリーまで5日間、投票権法の成立を求めて80キロの道をデモ行進した。シーガーもキング牧師に招待され4日目から参加した。武装した連邦軍兵士が見守る中、みんなで「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌いながら歩いた。

投票権法成立を求めた、セルマからモンゴメリーまで80キロのデモ行進で、先頭に立つキング牧師夫妻=1965年3月

キング牧師の歴史の残る言葉

 州都に到着するとキング牧師は2万人以上を前に演説し、投票権法の即時成立を訴えた。人びとのこの力を背景に、投票権法はようやく議会を通過した。

 キング牧師は説教の中でしきりに「ウィ・シャル・オーバーカム」と唱えた。この年のハリウッドでの集会ではこの歌を歌うように提唱したあと、「いかなる嘘も永久に続きはしない」「真実はいったん地に落ちたあとも再びよみがえるのだ」など、歴史に残る言葉を述べた。

デモ行進で「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌うマーティン・ルーサー・キング牧師(右)と公民権運動活動家のジョン・ルイス氏(後に下院議員を17期務めた)=1966年
米国ワシントンDCのリンカーン記念碑にMartin Luther Kingの引用文を引用(Fabio Reis/Shutterstock.com)キング牧師は1963年8月、ワシントンのリンカーン記念堂の階段の上に立ち、歴史的な行進を締めくくる演説をした。この時に立っていた場所の石には、演説のフレーズ「I have a dream」の文字が今も刻まれている(Fabio Reis/Shutterstock.com)

 そのキング牧師は1968年4月に暗殺される。4日前の最後のミサでも「ウィ・シャル・オーバーカム」と語った。葬儀に集まった5万人以上もの人々がこの歌を合唱した。

米国の公民権運動指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の記念碑。2011年、首都ワシントンD.C.の国立公園ナショナル・モールに建てられた。メモリアルエリア入口に「絶望の山」があり、中に入ると高さ9メートルある巨大な「希望の石」が見えてくる。この石の前面にキング牧師の像が彫られている(kropic1/Shutterstock.com)

ウィルとシャルの違い―各時代・各地域で歴史を変える力に

 同じころ全米を揺るがしたのがベトナム反戦運動だ。ここでも歌われた。米国だけではない。欧州でもそうだったし、日本でも

・・・ログインして読む
(残り:約1081文字/本文:約5816文字)