正義の刀をふり教条的護憲を唱える固定客ではなく、救うべき人々を発見せよ
2021年11月18日
『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)という本を2年前に上梓したため、選挙前後に少なからずのメディアが「リベラル、敗けましたね!」と(やや嬉しそうに)取材オファーをくださった。しかし、この期に及んで、著者当人が、「敗けたのか? それで、何に敗けた・・・のか?」とモヤモヤと気が晴れないのである。数を競う選挙に、脳内回路が引っ張られすぎたのかもしれない。
ちなみに「リベラル」という言葉には、今や多くの手垢がついてしまい、「何でも反対する人たち」とか「野党のこと」などと、それは実に杜撰な記号になっている。私は、腰だめ的に「自称」リベラルなのだが、過日別の自称リベラルの方から「藁人形論法のリベラル叩きの硬直芸人」などと叱られてしまったので、誤解を解くためにも少し説明しておく。
私は、「グローバル化した現在、国家単位では対応不能な問題に直面しているから、国家権威とか家族の伝統という幻想価値よりも、目前の多様な背景を持つ人々を個々大切にして、『どんな努力も意味がない』と社会経済生活を諦める人を極少にするために、間違いながらも己と友人とで相談し、なんとか信頼を前提に自由にものが言える社会を維持する政府が必要」だと思う。
小難しく言うと、国家は社会維持のための手段とし(機能主義)、伝統を過信せず尊重し(再帰的近代)、新しい社会的諸価値に寛容で(個人の尊重)、人間の誤謬を前提に対話を重視して(デモクラシー)、不可知な隣人への信頼が崩壊しないように(社会的保守主義)、適切に政府を経済に介入させる(反緊縮主義)べき、という立場である。
ちなみに、社会を守るために、「大量破壊、人間殺傷のためのテクノロジー」と、それを操作する集団を、国際法の要請に不足なく応え、厳しく最高法規(憲法)と下位法によって拘束し、際限のない軍拡を抑止するべきという鋼のような信念を持つ。これは枝野元立憲民主党代表がかつて言ったように「昔の自民党で言えば宏池会に近い」、友人のマルクス主義者からは「保守反動修正主義者」と言われそうなくらい穏健だと思う。
したがって、「リベラル派=野党」とは考えない。野党の中には、個人よりも党組織の規律を軍隊のように優先する所もあるし、内部ガヴァナンスを疎かにして原理主義者に忖度する党もあるし、何よりも国際人道法を無視して、他国と結んだ片務的な地位協定を放置して、規範を失った憲法を「不可侵」とする集団も含まれているからだ。
「議席の獲得数」という意味では、4年前に比べれば、野党側はかなりの数の小選挙区で共産党が候補者を取り下げ、「必敗の特攻」を挑む虚しい選挙区は減った。共産党を顕彰したい市民連合は「共闘のおかげ」と評価し、実際にそういう選挙区もたくさんあった。立憲民主党は、小選挙区での当選者を増やした。だからその意味では惨敗ではない。野党共闘で政権交代になると有権者が思わなかっただけだ。自民党の選挙のプロが危機を受け止め、表紙を変えた瞬間、つまり野党に「一寸先は闇の政界では当然用意するべきプランB」が全く用意されていなかった時点で、「政権交代選挙」に敗けていたのだ。
つまり選挙の結果が示しているのは、野党の戦いは前回よりもちょっとだけお利口になったから大敗ではないが、与党もさほど後退せず、維新が復調し、国民民主が少々勝った程度で、およそ三つのグループとなったという図式だ。
比例ベース得票率を目安にすれば、自民党がだいたい3割強、中道という意味で与党公明・「ゆ」党の維新・国民でおよそ3割、野党立憲共産れいわ社民で約3割ちょっとである。個別の政策ごとに見れば(消費税率など)、この分類は大雑把かもしれないが、問題は「各々の政党側の立ち位置」ではなく、むしろそれが有権者に「どう受け取られているか」である。これは「自民党に嫌気がさした浮遊する有権者が、どこを今回の着地点として選んだのか」という問題である。
結論から言えば、「さすがにもう無理だ、安倍・菅」と思った人たちは、「それじゃぁ立憲中心で」とはならなかった。立憲民主党の獲得議席数は、選挙前より13減ったが、その数はドイツ式の小選挙区比例代表併用制で計算しても、ほぼ同じ90台前半だ。だから大阪で完勝し全国的に得票した維新が2012年以来の議席41まで戻したこと、自虐的に「支持率ゼロの私たち」と言っていた国民民主党がしっかりと微増したことは、左派の野党が「何において敗けたのか」を考えるためのヒントとなる。
誤解をしてはいけない。維新という政党、国民民主党「を」評価するのではない。自民党から心が離れた人々「を」、左派野党集団「が」どう理解するかである。「あそこに投票するような人たちとはそう人たちなのだ」ではない。「あそこに投票せざるを得なかった人たちなりの“理(ことわり)”をどう解読するか?」。それこそが問われなければならない。
中途半端とは言え、小選挙区を中心とする現行選挙制度では、「前回投票しなかったけど行ってみた」、そして「今回は別の党に入れてみた」という投票者が10%程度移動するだけで、議席が100も200も変動してしまう。維新・国民という「ゆ」党への投票者は、「自民vs立憲」という図式にピンと来なかった人たちだと推論できる。両党の比例の得票数を合わせると約1000万票である。これは有権者のちょうど10%である。つまり、この制度では「生まれた時から自民党しか知らない」とか「槍が降っても立憲に投票」という人は、勝負を決する人たちではないのだ。浮遊する10%の顧客をどうやって来店させるかが商店街の風景を決めるのである。
「維新の会が4倍増の躍進!」と報じられると、SNSでは維新嫌いの人たちの間で「維新を勝たせる大阪はアホ」といった剥き出しの愚民観が飛び交っていた。橋下徹元大阪府知事以来の伝統芸「敵を定めて論破する“溜飲下げさせ論法”」、「痛みを伴う(人の給料を減らす)改革」というネオリベ的主張、根拠不明の大阪都構想など、維新嫌いの人たちはその理由を挙げるが、2009年の民主党政権誕生選挙の時、大阪の小選挙区はあらかた民主党の完勝だったことを思い返せば、これは「好き嫌い」の話だ。
だがこの愚民観は、「野党は一体何で敗れたのか?」という問いにヒントを与える。どのような政治キャンプにいても、一定数以上必ず「民衆は愚かである」という貴族主義者はいる。しかし、問題は「愚かな民衆」という意識が、「10%で世界の風景が変わってしまう」というゲームのルールの下で何をもたらすかだ。はっきり言えば、野党とその支持者は「市民の目線で」と言うほど、実のところあまり市民を信頼していないのだ。
第二次安倍政権以来、自民党は憲法改正に前のめりだ。そして、メディアも旧態依然の二分法の「護憲vs改憲」という空虚な言葉を使い続けて、憲法論議の遅滞を後支えしている。無論、「軍隊を持たない」という9条2項に、「でも軍隊はある」と書き足そうとする自民党(安倍)改憲案は法理を破壊するもので、これは国際法との平仄においても論外の案である。
しかし、自称リベラルや野党は
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