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【18】「日本人は集団主義的」という議論の先にあるもの:集団思考を育てるという視点

塩原俊彦 高知大学准教授

 忘年会や新年会のシーズンを迎える。たぶん、会社や学校などでの仕事の一環として、忘年会や新年会がいたるところで開かれる国はあまりないだろう。台湾には、「尾牙」(ボエゲエ)という旧暦12月に日本のような忘年会があるらしい。キリスト教徒の国では、クリスマスで忙しいから、忘年会どころではないだろう。

乾杯)拡大kai keisuke/shutterstock.com

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が下火になってきたとはいえ、「忘年会、新年会は『積極的に参加を』 山形県鶴岡市が職員に呼びかけ」なる記事を読むと、いかにも日本的な役人の発想という気がしないでもない。他方で、東京商工リサーチが実施した企業向けアンケート(有効回答8174社)で、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置に関係なく忘年会や新年会を「開催しない」と回答した企業は70.4%(5760社)に達したという。この結果も、やけに同調圧力が強い日本的な雰囲気を感じさせる。

「日本人は集団主義的」という通説は誤り?

 他方で、東京大学のサイト情報には、研究成果として、「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」というものが紹介されている。1997年に高野陽太郎・櫻坂英子著「“日本人の集団主義”と“アメリカ人の個人主義”」(『心理学研究第68巻第4号』)が公表され、2008年に、高野は『「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来』(新曜社)を刊行するなどした結果、ついつい「『日本人は集団主義的』とする通説が間違いであることがいまでは受けいれられている」と判断して、こんな紹介の仕方をしているのかもしれない。

 忘年会や新年会を開いて強制的に参加させるのは、「個人を集団に従属させる」という集団主義そのものである。それが、独創的な発想を抑制し、いわゆるスタートアップ企業を抑圧し、「ニッポン不全」につながっているのかもしれない。だが、日本人が集団主義的かというとそうではないと、高野らは主張している。ここでは、この問題を「集団思考」という、あまり語られることのない視角から論じることで、いまの日本を考えてみたい。

群集)拡大Thomas La Mela/shutterstock.com

「集団的無意識」という視点の重要さ

 筆者からみると、「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」という断定を受け入れることはできない。高野らの主張には決定的な欠陥があるからだ。それは、「集団的無意識」という論点を無視している点だ。

 「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」では、日本人が大戦中にとった集団主義的な行動が「集団主義的な文化」の証左であると解釈されてきたのは、「対応バイアス」という思考のバイアスのせいだと説明している。対応バイアスは「人間の行動の原因を推定するとき、外部の状況を無視して、その行動と対応する内部の特性(たとえば、「集団主義的な行動」と対応する「集団主義的な精神文化」や「国民性」)が原因だと解釈してしまう」というバイアスだ。戦後まもなくの時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接した人々は、日本人が戦時中に見せた集団主義的な行動を思い起こしたとき、この対応バイアスの作用によって、歴史的な状況を視野に入れることなく、「日本に特有の文化・国民性が原因だ」という主張に納得してしまったのではないかと考えられるというのである。

 だが、この説明には、対応バイアスに潜む無意識の問題が無視されている。あるいは、日本人に生じたであろう集団的無意識についての積極的な記述がない(集団的無意識については、柄谷行人著『憲法の無意識』を参照してほしい)。集団的無意識にまで掘り下げて分析する姿勢が見られないために、「日本人は集団主義的」ではないという結論に説得力がないのである(無意識の重要性については、拙稿「縦書きへのこだわりを捨てよ:国民全体に広がる『無意識』に敏感になれ」を参照)。

 ただし、集団的無意識を論じる場合、その集団の定義が重要になる。その集団によっては高齢化とか死亡といった事態も想定しなければならない。柄谷の本では、日本人全体の集団的無意識が論じられているが、戦後70年以上たって、そうした集団自体の構成員の年齢構成も変化している。会社のような集団を想定すると、その変化はより急速だろう。つまり、ここでの議論を学問として精緻(せいち)化するのは困難だとあらかじめ指摘しておきたい。

集団思考の重要性

 ここで論じたいのは、集団的無意識を含めた「集団思考」(groupthink)という問題である。「日本人は集団主義的」という見方は、「イエ」や「組織」を優先させてきたように思われる日本人の傾向に対応している。だが、考えてみると、筆者自身、こうした集団について、あるいは、一時的で非組織的な群衆における思考について、あまり深く考えてみたことがなかった。

 そんな思いを強くさせたのがアニー・マーフィー・ポール著「集団の一部として考えるときの人間の思考法」という論考である。このなかでは、「我々の文化や制度は個人-そのユニークさ、特殊性、他者からの独立性-に固執する傾向がある。ビジネスや教育でも、公私ともに、我々は共同作業より個人の競争を重視する。我々は(少なくともあからさまに組織化された形態での)同調に抵抗し、「集団思考」と呼ばれるものに疑いの目を向けている」と記されている。それだけ、集団思考への理解が不足しているということになる。

『群衆心理』や『グループマインド』

 ポールは、「複数の心(マインズ)をもつ集団はどのようにして一つ集団とみなすのか」と問うている。そのうえで、集団を対象とする心理学の変遷に目を向けている。

 ギュスターヴ・ル・ボンは1895年刊行の『群衆心理』で、フランス語の“foule” という言葉を使って、「群衆」の心理を問題にした。英国のウィリアム・マクドゥーガルは、『社会心理学入門』(1908年) や『グループマインド』(1920年)で、集団思考などに関心を向けた。こちらは、“group”という言葉で心の問題を議論した。こうした視線は、昆虫学者のウィリアム・モートン・ウィーラーが、一見独立しているように見える個体が密接に協力し合うことで、一つの生物と見分けがつかなくなるという観察を行ったことが、この概念の先駆けとなっているという(Imam Kashif Abdul-Karim, In Search of the Black Seed, 2015)。

 だが、ポールによれば、集団心理がどのように作用するかを説明する方法がないため、理論家たちは漠然とした、非科学的な、あるいは超自然的な推測に頼ることになったという。その結果、「最終的には、この分野全体がその不明確さと支離滅裂さによって崩壊してしまったのである」とのべている。その反作用として、「社会科学者たちは、自分自身で考え、行動する個人にほぼ独占的な焦点を当てた」ということになる。

「社会的アイデンティティ理論」と「自己カテゴリー化理論」

 つぎに、「グループマインド:社会的アイデンティティが認知に与える広範囲の影響について」という論文を参考にしながら、その後の集団心理研究をみてみたい(日本語では、柿本敏克著「社会的アイデンティティ研究の概要」が参考になる)。

 まず、人は迅速かつ柔軟にグループを形成し、かなり恣意(しい)的な前提条件の下でもグループ内のメンバーを好むというところから、人間が社会的アイデンティティ(社会的集団ない し社会的カテゴリーの成員性に基づいた、人の自己概念の諸側面およびその感情・評価その他の心理学的関連物)に価値を置き、文脈に依存したアイデンティティのプロセスを示しているという「社会的アイデンティティ理論」が提唱される。

 同理論に、集団内行動を視野に入れることで、集団レベルの心理的プロセスの出現を、自己概念の機能という観点から説明する「自己カテゴリー化理論」が誕生する。自身を集団成員として範疇(はんちゅう)化する認知過程が自己カテゴリー化を意味し、その自己カテゴリー化には、個人レベル(すなわち、自分を他とは違う存在として定義すること)または集団レベル(すなわち、自分の社会集団と似た特徴を持つという観点から自分を定義すること)がある。さらに、自己カテゴリー化は、「本質的に変化しやすく、流動的で、文脈に依存する」。この視点によれば、現実は常に現在の社会的に定義された自己のレンズを通して知覚・解釈されるため、すべての認知は必然的に社会的なものとなる。

「デュアルプロセスモデル」

 論文「グループマインド」によると、ここ数十年、「デュアルプロセスモデル」と呼ばれる見方が登場している。無意識と意識を別々のプロセスと特徴づけ、「システム1」は反射的、自動的で、速く、感情的、連想的で、「システム2」は熟慮的、制御的で、遅く、認知的、命題的であるという。これは、ノーベル経済学賞を受けたダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー』のなかで紹介されているシステム1とシステム2に分けて脳の活動を分けて考える見方に対応している(詳しくは、拙稿「デジタル・トランスフォーメーション(DX)は世界の潮流:『システム2』思考の大切さを忘れずに」を参照)。

 このデュアルプロセスモデルでは、社会的認知の文脈において、人は最初、社会的カテゴリー(年齢、性別、人種など)に属するかどうかで対象を認識し、そのカテゴリーに関するステレオタイプに基づいて評価や判断を行う(レベル1)。しかし、最初の偏った衝動を抑える動機と機会がある人は、ステレオタイプを適用しないように人を個別化することができる(レベル2)。

 最近では、神経科学の進歩により、人間の評価システムは、多くのデュアルプロセスモデルが当初想定していたよりも、より広範囲に分布し、動的であることが示唆されている。その結果、自動プロセスと制御プロセスを、知覚と評価の処理の流れのなかで二分的または独立した段階として解釈するのではなく、任意のグループに識別するなどの自己分類の動的な側面が認知の表向きの自動的な側面を形成することができるとする主張が生まれている。認知的・神経的プロセスは、ボトムアップの視覚的手がかり(肌の色など)とトップダウンの社会的動機(集団への所属など)の組み合わせを反映しているとみなす見方が登場している。つまり、レベル1の無意識とレベル2の意識の組み合わせとして、集団内メンバー間の認知を前提として集団思考を考える方向性が生まれていることになる。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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