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立憲の代表選に欠けている「永田町の非常識」という対立軸~野党再生の鍵はここに

永田町ルールの不合理さを晒し、政治に不感症になってしまった人に届く言葉を語れ

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

 10月31日、4年ぶりの衆院選が行われた。幾つかの選挙区で有名議員が落選するなどの“波乱”などがあったものの、個人的な感想としては、事前の予測と大差のない結果となった。

 それは、「政権交代の準備は整った」と豪語していた立憲民主党の、公示前議席を大きく割り込む敗北も含めてだ。

 立憲はなぜ、負けたのか。それは、立憲がじゃんけんでいうと「グーにグー」を出し続けてきたからだ。同じグーなら数も力もある自民党に勝てるわけがない。

 衆院選敗北の責任をとって枝野幸男代表が辞任し、新しい代表を選ぶための選挙がおこなわれているが、正直言って違和感を禁じ得ない。衆院選敗北の総括を経た野党の存在意義についての自己検証すらなされていないからだ。

 現代日本社会で野党の存在意義はどこにあるのか。一方で、野党の存在意義はここにしかないという結論を筆者は持っている。本稿ではそこを論じてみたい。

立憲民主党代表選に立候補した(右から)逢坂誠二氏、小川淳也氏、泉健太氏、西村智奈美氏=2021年11月19日、東京都千代田区

シルバー民主主義に立脚する野党勢力

 興味深いデータがある。出口調査のデータを使って世代別や男女別に選挙を実施したらどうなるか、という日経新聞の試算である。

 それによると、40歳未満の集計結果で全465議席を配分すると、自民が約300議席(295.5議席)になったという。自民が実際得票した261議席を34も上回り、枝野幸男元代表が勝った埼玉5区や菅直人元首相が当選した東京18区でも自民が勝つという。

 一方、60歳以上の集計結果に基づいて配分すると、自民党は223議席となって過半数にも届かず、逆に40歳未満だと94.5議席だった野党は168議席まで増える(「日本に潜む分断 衆院選分析、40歳未満で自民300迫る」11月7日付日経)。

 つまり、40歳未満の若い年代は与党支持で、野党を支えているのは60歳以上のシルバー層。実は、野党こそが、いわゆる「シルバー民主主義」に立脚している勢力なのである。

 皮肉なことに、野党支持者が繰り返してきた、「若者が投票に行けば」「投票率が上がれば」野党が有利になるという見立ては、見当違いの夢物語であったことになる。とすれば、問題の本質はどこにあるのか。投票層や投票率の問題でないとすれば、一体どこに?

 答えは簡単だ。それは、「必ずしも自分たちに有益な政策を実施していない与党を、なぜ若い世代は支持しているのか」ということに尽きる。

「我々は自由という刑に処されている」

 日経のデータがすべてと考えているわけではないが、なんとなく「正しい」と思えるのは、現代社会を覆う空気感と直感的に合致するからである。

 現代、いや、近代からと言ってもよいと思うが、我々がリベラルだと信じている社会の核心は「個人の自己決定」であった。属性をすべて捨象した「個人」として、その属性から「自由」になるためのリベラルな価値観こそが、理想であり是とされてきた。

 しかし、弱い生身の個人は、真っ白なキャンバスに自己の生を自由に描いていいと言われると、かえって不安や疎外感に苛(さいな)まれ、どんな絵を描けばいいのか戸惑う。近代に端を発するリベラルな価値に、我々は押しつぶされかけている。まさに、「我々は自由という刑に処されている」(J.P.サルトル)のである。

 そうした生身の個人の心に巣くう不安感や孤独感という空洞を埋めたのは、かつてはファシズム、ナチズムであり、現代であればポピュリズムである。

自己決定を強いられ、「正解」を求められる現代人

 「自己決定を強いられる」現代人は、さらにその決定が「正解」であることを求められている。日常的にファストで正しい決定を求められ、決定の責任は社会や共同体が負う(共助、公助)のではなく、独立した「自己」が負わねばならない(自己責任・自助)。

 正解しなければ不正解者のレッテルを貼られ、減点を取り返すチャンスは与えられず、不正解のマイナスは世代を超えて再生産され固定化される。自己責任ベースの“正解主義社会”は、個人間の不信を生む。その結果、社会が「自分さえよければよい」バラバラな個人の無機質な集合体になりつつある。

 家族、学校、会社、友人関係等々のすべてにおいて「正解」を求められ、正解主義のプレッシャーに追われる我々は、「正解」という餌に群がる池の中の鯉のようだ。

40歳未満の人たちの前に広がる風景とは

 そして、この“正解主義社会”に「現代人×日本人×40歳未満」という条件を代入すると、いっそう厳しい風景が目の前に広がる。

 1990年前後に生まれた世代は、幼少期にバブル崩壊や派遣法の成立、消費税導入などがあり、社会というドア開けたとき、そこに広がっていた風景は、非正規の増加、デフレ、少子化といった日本の中枢を蝕む問題群だった。

 今や世帯所得が300万円未満の人々が全体の33.6%、400万円未満が47.2%に上る。生活にゆとりがあると答えた人々は4%しかなく、苦しいと答えた人々は約60%に達する(厚労省「平成30年国民生活基礎調査」)。

 就労者全体の約4割が非正規であり、一人当たりGDPも下降が止まらない。そのうえ、「どこに(どういう家に)生まれたか」という自分の意思ではどうにもならない事情によって人生が決まってしまいかねない、新たな「身分制」社会が現出しつつある(この点をメリトクラシー/能力主義の観点から批判したのが、マイケル・サンデルの近著『実力も運のうち』だ)。

 自由の前提が成立していない環境において、「自由な自己決定」など悪いジョークでしかないのに、「自己責任」だけが肩にのしかかる。若い人たちの前に広がるのは、そういう風景だ。

Roobcio/shutterstock.com

若い世代が自民党に投票するワケ

 こうした風景をつくった責任は、戦後のほぼ全期間にわたって政権を運営してきた自民党(与党)が負うはずである。にもかかわらず、若い世代の人たちが、野党への投票で異議申立てをするのではなく、自民党に投票しているのは明らかに不可解だ。

 こうした逆説を生んでいるのは何か。

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