橘 民義(たちばな・たみよし) 映画制作プロデューサー
1951年生まれ。早稲田大学理工学部卒業。1987年から岡山県議会議員3期(社会民主連合公認)。自ら起業したポールトゥウィン・ピットクルーHD株式会社(東証一部)代表取締役。映画「太陽の蓋」製作プロデューサー、「がんばれ立憲民主党の会」共同代表。著書に『民主党10年史』
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
政権交代へ、「小選挙区の必勝法」を実行せよ
立憲民主党の代表選挙が始まった。
党として、応援団としてどうしても欲しかった女性候補は西村智奈美。
政治の世界に「もし」という言葉はないが、もし辻元清美が当選していたらどうなっていただろう。
開票日、辻元清美の敗戦の弁は、投票してくれた人、選挙を手伝ってくれた人にただひたすら謝るばかりであった。精一杯落ち着こうとしているのがよくわかり、実際には天地がひっくり返るような無重力のような状態で、頭と心は別々で、どうにか言葉を絞り出しているということがひしひしと伝わってきた。
もともと大阪10区という選挙区は小選挙区では連勝できないところで、辻元自身が2014年と17年に連勝したのが初めてである。
17年以後、辻元は立憲民主党の国対委員長を務め、副代表にも就任した。メディアへの登場も多い。何よりも予算委員会での質問は歯切れも良く、単なる批判の域を脱した、弱者への愛情すら感じる。選挙区を越えて多くの国民からも期待された辻元にとっては、3連勝すれば落ち着くといわれる小選挙区でどうしても勝ちたい一戦であったが、比例復活もできなかったことは痛恨の極みとしか言いようがない。
立憲民主党にとっても最強の代表候補の選択肢がなくなった。失ったものは大き過ぎる。
落選すると議員会館も宿舎も4日以内に空けなければいけない。荷物を整理していても多くの電話がかかってくる、取材は入ってくる、そんなドタバタの11月3日夕方、宿舎の片付けが終わって大阪に帰る前の辻元清美に会って話した。
敗因についてはすでに多くのインタビューで本人が答えているが、「維新はローカル政党で、眼中にない」と言って、相手の池下陣営あるいは維新の会を必要以上に元気つけさせたことは大きかったかもしれない。辻元自身も慢心があったと告白している。
また、元自民党幹事長の山崎拓を応援に呼んだことも、いつも辻元が批判している自民党の元重鎮を頼ったとして、敵からは大きな矛盾だと攻められた。結果はマイナスだったかもしれない。
しかし、選挙戦を冷静に振り返ればもっと重要なファクターが見つかる。
小選挙区制度というものをどのようにして勝つか、このことをもう一度基本から考え直す必要がある。