公式戦出場を阻んだ壁をこえ、拳の先に何を見るのか~朝鮮学校とボクシング
大阪朝高でボクシングを指導してきた梁学哲さんの生き様と先人の思い
安田菜津紀 フォトジャーナリスト
抜けるような青空に赤や黄の紅葉がまぶしく浮かぶ、気持ちのいい秋晴れの日だった。日差しの温かなグラウンドとは対照的に、地下室は凛とした冷たい空気に包まれている。大阪府・東大阪市にある大阪朝鮮中高級学校のボクシング部の練習場は、そんな地下の一角にある。
天井の高い広々とした部屋には、高校には珍しく、見上げるような公式サイズのリングが構えられている。1998年に、ボクシング部キャプテンだった卒業生の父親が寄付をしてくれたものだという。立派なたたずまいの練習部屋も、今は静けさの中にある。数々の成績を全国でおさめてきた伝統あるこの部も、今は部員がおらず、2年前から休部状態が続いている。

大阪朝鮮中高級学校のボクシング部の練習場
戦後復興時代にプロボクサーだった祖父
この場所にお邪魔したのには理由があった。ひょんなことから私は、顔も見たことのない父方の祖父が、日本の敗戦間もない頃、プロボクサーとしてリングにあがっていたことを知った。茶色く変色した古いボクシング雑誌のいくつかには、祖父、金明根(後の記載は金命坤)の名前が刻まれていた。残っている対戦成績は少ないものの、確かにボクシングの戦後復興時代の一部を、祖父は生きていたのだ。
そうした先人たちが築き上げてきたものが、その後、どう受け継がれているのか。祖父の生きた証を、今につなぐ証言に触れたいと思った。
この大阪朝高で長年に渡りボクシングを指導してきた梁学哲(リャン・ハクチョル)さんは、噛みしめるように語った。
「日本の植民地支配によって、国を奪われた民としての悔しさから、日本の選手に拳では負けたくない、という思いが、先代の方々には強くあったと思います。同じ土俵での闘い、ルールのあるスポーツでは負けないぞ、というのが、その時代を生きた人たちの思いだったのでしょうね」

大阪朝鮮中高級学校のリング前に立つ梁さん
連載・安田菜津紀「あなたのルーツを教えて下さい」