大阪朝高でボクシングを指導してきた梁学哲さんの生き様と先人の思い
2021年11月28日
抜けるような青空に赤や黄の紅葉がまぶしく浮かぶ、気持ちのいい秋晴れの日だった。日差しの温かなグラウンドとは対照的に、地下室は凛とした冷たい空気に包まれている。大阪府・東大阪市にある大阪朝鮮中高級学校のボクシング部の練習場は、そんな地下の一角にある。
天井の高い広々とした部屋には、高校には珍しく、見上げるような公式サイズのリングが構えられている。1998年に、ボクシング部キャプテンだった卒業生の父親が寄付をしてくれたものだという。立派なたたずまいの練習部屋も、今は静けさの中にある。数々の成績を全国でおさめてきた伝統あるこの部も、今は部員がおらず、2年前から休部状態が続いている。
この場所にお邪魔したのには理由があった。ひょんなことから私は、顔も見たことのない父方の祖父が、日本の敗戦間もない頃、プロボクサーとしてリングにあがっていたことを知った。茶色く変色した古いボクシング雑誌のいくつかには、祖父、金明根(後の記載は金命坤)の名前が刻まれていた。残っている対戦成績は少ないものの、確かにボクシングの戦後復興時代の一部を、祖父は生きていたのだ。
そうした先人たちが築き上げてきたものが、その後、どう受け継がれているのか。祖父の生きた証を、今につなぐ証言に触れたいと思った。
この大阪朝高で長年に渡りボクシングを指導してきた梁学哲(リャン・ハクチョル)さんは、噛みしめるように語った。
「日本の植民地支配によって、国を奪われた民としての悔しさから、日本の選手に拳では負けたくない、という思いが、先代の方々には強くあったと思います。同じ土俵での闘い、ルールのあるスポーツでは負けないぞ、というのが、その時代を生きた人たちの思いだったのでしょうね」
梁さんは、1982年からの25年間、大阪朝高に勤め、今は生野朝鮮初級学校の校長として、子どもたちの日々を見守っている。目覚ましい成長を遂げてきたボクシング部が、全国へと進む前途多難な道のりも、選手たちと共に歩んできた。
「僕が指導した選手たちには、“拳で日本の選手に負けるな”、と教えたことはありません。朝鮮高級学校のボクサーとして、同じ土俵でチャンピオンを目指しなさい、と教えました。日本の選手たちは敵ではなく、ボクシングを志す仲間であり、同じ社会で生きていくんだと、彼らには伝えてきました」。
ただ、と梁さんは続ける。「同時に、左の拳にはこの学校の選手としての誇り、右の拳には先代たちが守ってきた、在日社会で生きていく誇り、それを両方の拳に込めて闘うんだ、とも教えてきました」
梁さんは福岡で生まれ、その後、朝鮮学校の教師だった父親の赴任地である神戸に移った。その頃打ち込んでいたのは、ボクシングではなく、空手だった。
「朝鮮学校といえばサッカーですが、実は私は球技が苦手で……。空手を始めたきっかけは単純で、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』を見て、強くなろう!と思ったんですよね」。さらに高校時代には、極真空手ブームが巻き起こる。フルコンタクトの空手に憧れるようになり、道場に通って練習に没頭する3年間を過ごした。
ボクシングを始めたのは、朝鮮大学校に進学した後だった。「体が小さかったので、当時の極真空手の道場の先生が勧めてくれたんです。当時は空手にまだ階級がありませんでしたが、ボクシングは階級で勝負しますし、すっかりその気になってしまって、ボクシング部に入部しました」
梁さんが朝鮮大学校に入学したのは1978年のことだ。その2年前の1976年に、大学ボクシング部が関東大学アマチュアボクシング連盟に加盟。翌年には関東大学リーグへの道が開かれていた。
当時、朝鮮大学校の部活の中で、唯一日本の公式戦に出場していたのがボクシング部だった。梁さんは関東大学トーナメントのバンダム級で準優勝するなど、選手としての実績を着実に積み上げていった。
そして1982年、卒業して最初に国語教師として赴任したのが、当時は千人もの生徒が在籍していた大阪朝鮮高級学校(現・大阪朝鮮中高級学校)だった。周囲からの学校の評判は、「荒れている」というものだった。日本の高校生たちと喧嘩をする生徒もいて、今の学校とは似ても似つかない雰囲気だった。
「子どもたちが荒れている、というよりも、そういう時代だったんだと思います。勉強をする子、スポーツに長けている子もいれば、血気盛んな子たちもいる。しんどかったけれど、生徒たちは元気があり、やりがいがあるな、と思っていました」
梁さんが赴任した当時、顧問をつとめたボクシング部の練習場は、手作りのロープに畳を敷いた、4メートル四方に満たないような小さなリングだった。ほとんど練習に来ない生徒もいる一方で、懸命に練習に打ち込もうとする選手は、指導者を求めていた。本格的に、彼らを強くしていくための計画がはじまった。
「入学した子たちには、まず基礎を徹底的に教えました。縄跳びや懸垂、腕立てで、ボクシングに必要な筋肉をつけていく。そして走り込み。ボクシングの世界では“走れば勝つ”と言われるくらい、走り込みが大事なんです。プロボクシングは10ラウンド、12ラウンドの世界なので、マラソンにたとえられますが、アマチュアの場合は、2分3ラウンドや3分3ラウンドなので、800メートル走や1500メートル走にたとえられましたね。生徒たちが学校の周りを走る横で、自転車を走らせる日々でした」
指導者としての鍛錬も欠かさなかった。1990年には、朝鮮民主主義人民共和国の首都、平壌で開かれたIOC(国際五輪委員会)主催の指導者講習会にも参加した。平壌ではちょうどその時、ボクシングの国際トーナメントが開かれおり、日本のトップクラスの代表も参加していたという。
ところが、選手が力をつけてきても、練習の積み重ねだけではどうしても越えられない壁があった。各種学校扱いの朝鮮学校は、地区予選含む公式戦の出場が認められていなかったのだ。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください