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この国に足りない「民主主義」と「人権」を手に入れる~立憲の泉健太新代表が挑むべきこと

恵まれた者の権力ゲームに堕した政治を、この国に暮らすみんなの政治に

松下秀雄 朝日新聞山口総局長・前「論座」編集長

 立憲民主党の新代表に、泉健太氏が選ばれた。

 私が新しい代表に望むことは、民主主義の実現である。

 もちろん、日本は民主主義国ということになっている。けれども、その実態は貴族政とさして変わらない。

 恵まれた者による権力ゲームに堕してしまった政治を、この国に暮らすみんなの政治に切り替える。それこそが、新しい立憲民主党がめざすべき目標ではないか。

立憲民主党の新代表に選出された泉健太氏=2021年11月30日、東京都港区

あやまちは「批判」ではなく「批判のための批判」

 これまでの立憲民主党のどこがまずかったのか。泉氏が代表選で指摘したひとつが、「立憲民主党は批判ばかり」というイメージを抱かれていることだった。

 私の理解は少し違う。立憲に限らず、野党が繰り返してきたあやまちは「批判」したことではなく、「批判のための批判」だと見透かされたことではなかったか。

 旧社会党の最大の失敗は、村山富市委員長が首相の座についたとたん、開かれた党内論議もなしに「自衛隊合憲、日米安保体制堅持」へとかじを切ったことだった。これまで自衛隊は違憲だ、非武装中立だといってきたのは口先だけだったのか。そう疑われるのは当然だろう。

 振り返れば、野党陣営はほかにも一貫性のないふるまいを繰り返してきた。

 小沢一郎氏が1993年に上梓した『日本改造計画』は、グランドキャニオンには転落を防ぐ柵がない、日本人には「自己責任の自覚」が必要だという話から始まる。しかし、新自由主義的「改革」路線のお株を小泉純一郎首相に奪われ、小沢氏は「国民の生活が第一」に転じる。

 「希望の党」の一件では、安保法制に徹底抗戦した民進党の政治家たちが、安保法制を実質的に認める「踏み絵」を踏んで、希望の党になだれこむ。

 この人たちは、本気で反対していたのか? 権力がほしいため、議席を増やしたいがために政権の足を引っ張っただけではないのか? そんなふうに疑われてもしかたがないふるまいだった。

 立憲は「政権政策2021」で、「『批判ばかり』とは言わせません」のタイトルのもと、政府提出法案の7割以上に賛成していると説明している。しかし、賛成が多ければよいわけではない。政権がおかしなことをすれば、批判するのは野党の大切な役割だ。

 問題は、ほんとうにおかしいと思ったことを批判するのか、単に政権の足を引っ張るために批判するのか。戒めるべきは後者であり、前者まで鈍らせるべきではない。それではいままで以上に、政権が好き勝手にふるまうことになる。

「権力ゲーム」に堕するのはなぜか

 なぜ、政治は権力ゲームに堕してしまうのか。

 私は政治記者になって27年が経つが、石にかじりついてでも実現させたい政策や目標をもつ政治家はいったいどれほどいるのか、首をかしげている。

 その背景にあるのが、食うに困ったことも、差別や抑圧を受けた経験も乏しい、恵まれた中高年男性が政界の多数を占めていることである。

 私もそんな中高年男性のひとりとして、自分の鈍さがよくわかる。

 政治記者人生の前半戦は権力ゲームの取材に明け暮れた。それが政治だと思い、おかしいとも感じなかった。記事を書くとき、政府のやることを前向きに書くのは「座りが悪い」。その程度の感覚で、辛口に書いたりもした。いってみれば、場当たりな批判を繰り返す野党と似たことをやってきたのである。

 40代半ばで論説委員に就く前後から、政治家や官僚ばかり取材し、彼らと同じ視点からみていたのでは、政治を論ずることはできないと考えるようになった。自分なりにぶれない軸をもつため、女性や若者、性的マイノリティー、障がいのある人、沖縄の人たちなどの取材にとりくんだ。

 そこで気づかされたのが、この社会にいかに「人権」が根付いていないかである。

 端的な例が、日本に在留する資格をもたない人たちだ。人を傷つけたわけでも、物を盗んだわけでもないのに家族と引き離され、入管施設に収容される。裁判を受けることもなしに自由を奪われ、いつになったら出られるのかもわからない。そんな状況に置かれたら、あなたは耐えられるだろうか。

 国家権力による人権侵害を見逃してきたことを、有権者のひとりとして、政治取材に携わる者として恥じ入るほかない。そのことは「人間として扱え! 衆院選で問われている、至極あたりまえのこと」に

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