メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

太平洋戦争は「不決断」と「空気」によって始まった~猪瀬直樹が問う「12月8日」とコロナ危機

活かされない組織、好都合なデータ操作、リーダー不在……意思決定の欠陥は続いている

石川智也 朝日新聞記者

 “the Point of No Return”とは、燃料残量から計算して離陸地に戻れなくなく限界点のことを指す航空用語だ。おそらく私たちの人生にも、そして国家にも、それを超えてしまったらもう引き返すことはできない、という地点がある。

 それなら80年前、日本はどこでその帰還不能点を超えてしまったのか、だれがその決断をしたのか、当時でさえ多くの者が「勝てるはずがない」と考えた大国との戦争への道をなぜ進んだのか――。そう問うてみても、答えは判然としない。

 主戦派の東条英機や陸軍に親米英派が押し切られた、という通俗史観に対し、新史料の収集や生き証人への聞き込み、数字の分析によって挑んできたのが作家の猪瀬直樹氏だ。もはや古典とも言える『昭和16年夏の敗戦』(1983年)では、開戦前夜に密かに集められた若きエリート官僚たちが「日米戦必敗」の結論を出していた史実を掘り起こすとともに、開戦判断の陰のキーパーソンとも言える「最後のA級戦犯」に肉薄し、近現代史家に衝撃を与えた。

 そこで描かれているのは、リーダーシップの欠如、官僚的な日常の惰性、ご都合主義的なデータのつまみ食いであり、「主体」が見えず「責任」もまた集団の中に融解してしまった、いまも変わらぬ日本型意思決定の姿そのものだった。そして、「空気」という名の同調圧力に支配される人々の姿も……。

 コロナ禍という危機においてふたたび顕わになったこの「病理」をどう克服すればよいのか。猪瀬氏にあらためて聞いた。

拡大

猪瀬直樹〈いのせ・なおき〉 1946年長野県生まれ。87年『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞、96年『日本国の研究』で文藝春秋読者賞受賞。東京大学客員教授、東京工業大学特任教授を歴任。2002年に道路関係四公団民営化推進委員、07年に東京都副知事に任命される。12年に東京都知事に就任、13年辞任。15年より大阪市・大阪府特別顧問。21年11月、富山和彦・安宅和人・松田公太らと民間臨調「モデルチェンジ日本」を立ち上げた。主な著書に『天皇の影法師』『黒船の世紀』『ペルソナ 三島由紀夫伝』『公 日本国・意思決定のマネジメントを問う』などのほか『日本の近代 猪瀬直樹著作集』(全12巻、電子版全16巻)がある。近著に『カーボンニュートラル革命』。

「軍国主義だった」では何の説明にもならない

 ――8月15日は国家的な記念日である一方、12月8日という日付はsocial amnesia(集団的健忘症)の地平に追いやられています。

 戦後日本は平和憲法を持ち戦争を放棄した。「二度と戦争を起こしてはいけない」はよいとして、ではなぜ勝てる見込みのない戦争に踏み込んだのか、子どものころから不思議に思っていた。

 近現代史の教育では、経緯を流れを追って教えるだけ。現代の生徒学生たちの第2次世界大戦に関する知識も、僕の子どものころと変わっていない。日米開戦にあたってどのような討議や意思決定が行われたのか、戦争を始めるにあたり指導者たちにどのような葛藤があったのか、教科書には描かれておらず、疑問に答えてくれていない。教育は「なぜ」を考えることのはずだ。その検証がなければ、次世代が教訓を得ることもできない。

 「日本への石油輸出禁止は続き、日米交渉は妥協点を見いだせないまま、1941年(昭和16年)10月、日米交渉の継続を望む近衛文麿首相と、開戦を主張する東条英機陸相とが対立して近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立した。東条内閣は日米交渉を続けつつ開戦準備を始めた。アメリカ合衆国との開戦に躊躇する昭和天皇も東條首相や陸軍に説得され最後の交渉を行うことになった。昭和天皇の面前で行う御前会議の決定に従い、1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾などを奇襲攻撃し、マレー半島にも上陸して、アメリカ合衆国、イギリスに宣戦布告して太平洋戦争が開始された。」(『新日本史B』2015年 山川出版社教科書)

 日米開戦の責任を東条という「悪玉」ひとりに帰するのは、あまりに単純。東条や陸軍は米国が求める大陸からの撤兵に「支那の英霊十万を見捨てるのか」と反発し近衛を突き上げたが、自身に組閣の大命が下ると、開戦回避を望む昭和天皇の意思に沿おうと苦悩する。

 昭和天皇と内大臣の木戸幸一は「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と、主戦派急先鋒の東条を使えば陸軍を抑えられると考え賭けにでた。律義な“忠臣”の東条は追い詰められ小役人のように立ち回ることしかできず、自分が蒔いた種とも言える開戦のうねりを止めようとするが止められなかった。

 でも戦後を覆った勧善懲悪の図式はいまだに常識化している。軍国主義だから戦争をした、軍部が独走した、という言い回しは大雑把すぎて、何も説明していないに等しい。

1941年12月7日(日本時間8日)、真珠湾(パールハーバー)で日本軍の攻撃を受け、黒煙を上げて沈む米戦艦アリゾナ 拡大1941年12月7日(日本時間8日)、真珠湾(パールハーバー)で日本軍の攻撃を受け、黒煙を上げて沈む米戦艦アリゾナ


筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。社会部でメディアや教育、原発など担当した後、特別報道部を経て2021年4月からオピニオン編集部記者、論座編集部員。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所客員研究員。著書に『さよなら朝日』(柏書房)、共著に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版)、『住民投票の総て』(「国民投票/住民投票」情報室)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

石川智也の記事

もっと見る