メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

太平洋戦争は「不決断」と「空気」によって始まった~猪瀬直樹が問う「12月8日」とコロナ危機

活かされない組織、好都合なデータ操作、リーダー不在……意思決定の欠陥は続いている

石川智也 朝日新聞記者

板挟みになり右往左往する“役人宰相”東条英機

 ――『昭和16年夏の敗戦』では、好戦的な軍人という東条の通俗的人物像を排し、開戦の経緯と東条が果たした役回りを、公式史料だけでなく関係者のメモや証言から再現しています。

 日米開戦における重要な会議はふたつあり、ひとつは天皇臨席の「御前会議」、もうひとつは「大本営・政府連絡会議」。

 当時の日本の国家意思は「統帥」(軍の最高指揮権)を担う「大本営」と、「国務」(行政権)を担う政府(内閣)に二分されていた。大本営のうち陸軍部は参謀本部、海軍部は軍令部と称し、それぞれ参謀総長と軍令部総長がトップ。俗に言う「軍部」とは、この統帥部と、内閣の組織である陸軍省と海軍省をあわせたものを指す。

 統帥権は天皇大権に属すので、統帥部は天皇の権威を笠に内閣を事実上無視して作戦を発動できた。「軍部の独走」は明治憲法の欠陥から生じた。それを補い最高意思決定をするための場が大本営・政府連絡会議で、御前会議は単に決まっている結論を承認し正当化する儀式的な場だった。

昭和天皇が臨席した御前会議拡大昭和天皇が臨席した御前会議

 1941年9月6日の御前会議で、日米開戦止むなし、という「帝国国策遂行要領」が承認される。これは、10月下旬の開戦を準備する、という厳しいものだった。東条内閣は、近衛内閣時代のこの決定を白紙に戻す“密命”を課せられていた。

 東郷重徳外相は当初、東条に「近衛内閣崩壊の原因はあんたにある。そのことを無視していては応じられない」「陸軍が従来どおりの強硬な態度を取り続けるなら、(日米)交渉挫折は明らかだ」とたたみかけ外相就任を拒否した。東条は「支那撤兵も含めて日米交渉を再検討する」と言明せざるを得なかった。海軍の嶋田繁太郎も、東条が直談判で「9月6日決定の白紙還元」を訴えてようやく海相を引き受けた。

東条内閣の閣僚たち。前列中央が東条英機首相兼内・陸相、右端が鈴木貞一国務相兼企画院総裁。第3列目右から3人目が東郷茂徳外相兼拓相。第4列右端が岸信介商工相=1941年10月18日、首相官邸拡大東条内閣の閣僚たち。前列中央が東条英機首相兼内・陸相、右端が鈴木貞一国務相兼企画院総裁。第3列目右から3人目が東郷茂徳外相兼拓相。第4列右端が岸信介商工相=1941年10月18日、首相官邸

 東条内閣発足6日目の10月23日から、日米開戦再検討のための大本営・政府連絡会議が連日開かれた。堂々巡りの議論が続くが、東条は「お上の御心を考えねばならぬ」とちぐはぐなことを言うだけで、まったくリーダーシップを発揮できない。

 結局開戦を決めた12月1日の御前会議の後、天皇の意に反した結論を上奏しながら東条は顔面蒼白だった。陸相と内相を兼ね独裁権を敷いたかのように言われた東条だが、その姿は決して「独裁者」のものではない。

石油禁輸、独ソ戦から場当たり的な南方進出案が浮上

 ――連絡会議における強硬派と開戦回避派の攻防のヤマ場は、仮に開戦した場合の物資の需給見通し、特に石油のストックをめぐってのものでした。ファクトとしてのこの数字が独り歩きしたことが、議論を開戦に引っ張った大きな要因だった指摘していますね。

 あの戦争は最終的にはエネルギー問題だったと言える。アメリカの対日石油禁輸措置は1941年8月1日とされているが、実質的な禁輸は「石油製品輸出許可制」が完全実施された6月21日で、それ以降は一滴の石油も入手できなくなっていた。

 当時陸相だった東条は、人造石油(石炭液化)の開発がドイツのように軌道に乗っているはずだと信じていたので、石油禁輸も楽観的に捉えていた。しかし実際には計画の1割にも満たない生産量しかなかった。陸軍省燃料課長から切羽詰まった数字を説明され、南方進出して石油を入手した場合の受給予測表を示された東条は、「泥棒せい、というわけだな」と激怒した。

南部仏印進駐。サイゴン(現ホーチミン)市内を行進する歩兵自転車隊=1941年7月 拡大南部仏印進駐。サイゴン(現ホーチミン)市内を行進する歩兵自転車隊=1941年7月
 しかし6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に攻め込むと、政府・大本営連絡会議は南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)進駐を決める。外相の松岡洋右は三国同盟締結当時のままの現状認識にとどまり、独ソ関係悪化の兆しを読めていなかった。

 7月2日の御前会議が「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を正式決定するが、「推移」とは「時の移りゆくこと」という意味で、これほど主体が不明確な言葉はない。

 結局、対ソ戦略は成り行きまかせ、ドイツ軍が勝ちそうになれば日本も打って出る、その間に資源獲得のために南進する、という場当たり的なものだった。南部仏印進駐は7月28日に実行され、アメリカの対日感情はさらに悪化することになる。

 10月27日の連絡会議で、海軍省整備局長は、11月に開戦しインドネシアの石油を獲得すれば3年近くはもつが、来年3月開戦だと2年もたない、という趣旨の説明をする。賀屋興宣蔵相は「戦争した場合、しないでこのまま推移した場合、それぞれどうなるか、数量的に知りたい」と、数字を頼りに統帥部に抗しようとした。

 しかし、提出された企画院の「数字」が曲者だった。


筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。社会部でメディアや教育、原発など担当した後、特別報道部を経て2021年4月からオピニオン編集部記者、論座編集部員。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所客員研究員。著書に『さよなら朝日』(柏書房)、共著に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版)、『住民投票の総て』(「国民投票/住民投票」情報室)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

石川智也の記事

もっと見る