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差別を禁止しないこの国で、差別と闘う~安田菜津紀さんの提訴の意味

マジョリティーの暴力を自覚しない私たちの問題性

松下秀雄 朝日新聞山口総局長・前「論座」編集長

 12月8日、提訴したという記者会見に臨んだ安田菜津紀さんは、いつものように穏やかで、落ち着いた口ぶりだった。

 でも、ほんとうは勇気が要ったろう。安田さん自身がいうように、ヘイトスピーチは浴びせられる者に「声を上げたら、また言葉の暴力にさらされる」という恐怖心を抱かせ、黙らせる力をもつからだ。

 安田さんはそのおそれを知りながら、覚悟を決めて訴えた。SNSへの差別的な投稿を「見ない」といった対処方法ではヘイトがやまず、ほかの人に矛先が向かいかねないからだ。次世代に問題を持ち越さないために決意したのだという。

 この裁判の主眼は、個人の損害を埋め合わせることにあるのではない。

 差別を禁止しようとせず、放置してきたこの国で、差別をなくすための足がかりを得る。大きなねらいを込めた裁判である。

記者会見で提訴を公表する安田菜津紀さん=2021年12月8日、東京・霞が関

家族の歩みをたどる記事に、浴びせられた罵声

 きっかけは昨年暮れ、安田さんが執筆した「もうひとつの『遺書』、外国人登録原票」という記事だった。

 幼いころ、安田さんを膝の上にのせた父は、なぜか絵本をすらすらと読めない。「もういい!」としびれを切らした安田さんは、「お父さん、日本人じゃないみたい!」といってしまった。そんなエピソードから始まっている。

 安田さんの父は、安田さんが中学2年生の時になくなるまで、自身が在日コリアンであることをわが子にも明かさなかった。

 なぜ、自身の出自を語らなかったのか。父の家族は朝鮮半島のどこからきたのか。「外国人登録原票」という書類を手がかりに、家族の歩みをたどる安田さんの旅を記事に描いた。

 この記事に共感が寄せられた一方で、罵声も浴びせられた。記事を紹介する安田さんのツイートに対して浴びせられた罵声のうち、発信者を特定できた2人にそれぞれ195万円の損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。

 浴びせられたのは、次のような言葉である。

 「密入国では?犯罪ですよね?逃げずに返信しなさい」

 「在日特権とかチョン共が日本に何をしてきたとか学んだことがあるか? 嫌韓流、今こそ韓国に謝ろう、反日韓国人撃退マニュアルとか読んでみろ チョン共が何をして、なぜ日本人から嫌われてるかがよく分かるわい お前の父親が出自を隠した理由は推測できるわ」

差別的返信が投稿された安田菜津紀さんのツイート

発信者情報開示の裁判で示された画期的判決

 安田さんの父は京都の生まれで、書き込まれたような「密入国」はしていない。

 ただ、安田さんは事実ではないことを書かれたことよりも、「ひとくくりに犯罪者だという言葉を投げつけたことの責任を問いたい」と語る。植民地支配をはじめとする歴史的背景を無視し、海を渡らざるを得なかった人たちを犯罪者扱いするのは、重大な差別にあたると考えるからだ。

 裁判の主なねらいは、このような差別的な言動は不法行為にあたると認めさせることにある。

 実際、後者の投稿の発信者情報を開示させるために起こした裁判で、東京地裁は、投稿が「広く韓国にルーツを有する日本在住者をその出自のみを理由として一律に差別する趣旨のもの」であることを理由に、安田さんの「人格権」を直接侵害していると認定した。今度の裁判でも、このような画期的判決がでることを、安田さんは望んでいる。

裁判とともにめざすこと、人権救済機関と差別禁止法

 ただ、めざす目標はそこにとどまらない。裁判に訴えるには、時間も労力も費用もかかる。そうして訴えても、「たまたま差別と認められることがある」くらいでは、多くの人は提訴をためらうだろう。

 そこで安田さんは、2つのことをめざしている。

 ひとつは、政府から独立した人権救済機関を設けること。費用を国が負担するなど、裁判よりも被害を訴えやすい仕組みにすることを求めている。

 もうひとつは、差別禁止法を制定すること。差別を禁止しなければ、裁判所は差別かどうかを判断する義務を負わず、そこに踏み込むのを避けるおそれがあるからだ。

差別する側の表現の自由と、される側の自由

 人種差別撤廃条約では、「各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む)により、いかなる個人、集団または団体による人種差別も禁止し、終了させる」と明記している。自由権規約には「差別、敵意または暴力の扇動となる国民的、人種的または宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」と書かれている。

 にもかかわらず、日本は、差別禁止法のような具体的な立法を怠ってきた。

 差別禁止法を求める声に対して、上がる反論の中でも最大のものは、表現の自由を侵害するということだろう。

 しかし安田さんは、日本の現状について「差別をする自由が非常に大きく認められて

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