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「彭帥問題」が示した「オリンピックと政治」の問題とIOC改革を阻害する要因

国際オリンピック委員会と女 子 テニス協会の対応はなぜ異なったのか?

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

2020年1月、全豪オープンに出場した彭帥選手=2020年1月21日、AP

 女子テニスの彭帥選手(中国)が、中国共産党の元幹部・張高麗前副首相から性行為を強要され、合意の上で不倫関係を持ったと公表した後、失踪した問題は、11月21日に国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が彭帥選手とされる人物とテレビ通話を行ったとする写真を公表したことで、解決するかと思われた。

 しかし、女子テニス協会(WTA)は、中国当局による彭帥選手の人権侵害を批判、真相を究明していないと反発し、彭帥選手の告発から約1カ月後の12月1日には、香港を含む中国でのトーナメントの開催を直ちに中止することを決定。また、アメリカが中国の人権問題を理由に来年2月開催の北京五輪に閣僚などを派遣しない「外交的ボイコット」を表明すると、オーストリア、カナダ、英国が協調するなど、状況はより複雑になっている。

 こうした事態を受け、IOCも「彭帥選手の健康と安全を懸念する」と声明を出すなど、「彭帥問題」や北京五輪を巡る各国の対立の先行きは不透明だ。

 WTTはなぜ、強硬な措置を講じたのか。一度は彭帥選手の無事を確認したとしたIOCはなぜ、態度を変えたのか。IOCはなぜ、WTAのように中国に対して適切な処置を求めないのか。本稿ではこうした幾つかの「なぜ」を通して、「オリンピックと政治」の問題やIOCのあり方について考えてみたい。

当初の方針を貫いたWTA

 彭帥選手の失踪が明らかになって以降、WTAは一貫して事態の早期の解決と真相の解明を中国に求めて来た。問題の解決が図られない場合には、中国でのトーナメント開催を中止する可能性に言及していたから、今回の措置は当初の方針通りということになる。

 WTAのスティーヴ・サイモン会長兼最高経営責任者(CEO)は、中国での大会中止を発表した声明の中で(参照)、「WTA理事会の全面的な支持の下に決定した」と指摘したように、中国に対する制裁は、WTA理事会、さらにはWTAによる「問題をうやむやにさせない」という強い意志の表れであった。

 WTAはどうしてこのような態度をとることが出来たのだろうか。

声明が公表されたWTAの公式ウェブサイトから

理念と原則に従った態度

 従来、男子テニスの付属的な位置付けであった女子テニスの地位の向上、女性選手の権利の拡大、女子選手の大会の賞金の水準を男子大会と同等まで引き上げることを目指し、1973年に結成されたのがWTAである。

 女子選手のための統括組織の設立を提唱し、初代会長となったのは、当時女子テニス界の第一人者であったビリー・ジーン・キング選手(米国)だった。

 男子プロテニス協会を手本とした組織の形態や運営方法を採用したWTAが出来たことで、現在、女子プロテニスの規模は男子と変わらぬ水準にまで達し、選手の社会的な地位や認知度も向上している。

 こうした背景を考えれば、かつて女子ダブルスの世界ランキング1位で、女子プロテニス界を代表する選手の一人でもあった彭帥選手の問題を等閑視することは、「女子選手の地位の向上」というWTAの設立の理念に背くことになる。

 キング氏がTwitterで「WTAは歴史的に正しい立場に立った」と発言したことは、WTAが女子選手の権利の拡張という理念と原則に従ったことを示している。(参照

国際社会が疑問を抱いたIOCの対応

 これに対し、IOCの対応には、当初から批判が集まった。

 中国代表として2008年の北京から2016年のリオまで、3大会連続でオリンピックに出場した彭帥選手の安否が気遣われるなかで、IOC会長が面会を行うのは不思議ではない。

 だが、バッハ会長が彭帥選手とのテレビ通話を行ったという証拠として公開されたのは、通話の様子を撮影した写真のみで、映像や音声は未公開であった。これでは、実際に両者が話し合ったかは分からないし、彭帥選手とされる人物が本人であるとどのように確認したかも不明である。

 画像を加工すれば、あたかもバッハ会長と彭帥選手とが対話しているかのような場面を作り出すことも難しくない。日時や状況を特定できない写真を公表して、ある人物が健在であることを強調するのは、強権的な国家では珍しくない光景でもある。

 バッハ会長と彭帥選手の対話の様子を収めたとする写真の信憑性に、国際社会が疑問を抱いたのも当然のことだった。

東京五輪の選手村に「五輪停戦」を願う壁が設置され、セレモニーであいさつするIOCのトーマス・バッハ会長=2021年7月19日、東京都中央区

「政治への不介入」の名の下に行われる政治的妥協

 それにしても、IOCはどうしてこのような写真を公表したのだろうか。

 アリババグループと中国蒙牛乳業という中国企業2社とスポンサー契約を結び、来年2月に北京で冬季五輪が開催される。これを勘案すれば、問題の早期の解決を目指す中国側の意向を汲む態度を示す方が、問題に懸念を表明して中国側を刺激するよりも得策という打算的な判断が、IOCの対応の背後に透けてみえる。

 さらに、WTAの措置を「スポーツの政治化」として批判した中国の態度は、「政治への不介入」を掲げるIOCの方針と通じ合う。

 IOCの唱える「政治への不介入」は、政治から超然とした立場を示すことであり、たとえ目の前の状況がどのようなものであれ、現状を肯定する態度に他ならない。

 ただ、批判の対象となっている行為への判断や評価を避けることは、間接的に当事者を支持することである。

 その意味で、「政治への不介入」を基本の原則とする以上、IOCはいかなる相手をも支持するという政治的な妥協を行っていることになるのである。

政治的対立の舞台となってきたオリンピック

 オリンピックはしばしば、政治的な対立や紛争の舞台になってきた。そんななか、IOCにとって、政治との距離をいかに保つかは、大きな課題であり続けた。

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