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コロナのリスクマネジメントはなぜうまくいかなかったのか?世界と日本で起きた事

安全保障化の「正の側面」に引きずられ、「負の側面」を見失った2年間

三浦瑠麗 国際政治学者・山猫総合研究所代表

 新型コロナウイルスの世界的感染が始まって2年。感染力の強いオミクロン株が各国で広がり、コロナ禍は一体いつ終息するのか、確たる見通しは立っていません。命にかかわるリスクにさらされ続けるなか、政治や社会はどう変わったのか。これまで「論座」にコロナについての論考を幾度も寄せていただいている国政政治学者の三浦瑠麗さんと社会学者の西田亮介さんに、あらためて寄稿をお願いしました。お二人の対談動画と合わせて、ぜひお読みください。(論座編集部)

拡大Dilok Klaisataporn/shutterstock.com

 日本にはリスク許容性が低い人が多いですが、それはなぜなのでしょうかと尋ねてきた人がいました。政治がいけないのか、社会の風潮なのか、日本の長い歴史に根差したものなのか。福島第一原子力発電所に貯蔵されている処理水の放出をめぐる議論の中でです。

 自然界にある放射線と違いはないのに、ゼロではないというだけで印象が左右されてしまう。いったいどのようにリスク・コミュニケーションをすれば分かってもらえるのだろうか――。

 この発言を聞いた時、すぐに目下のコロナ現象を想起したことは言うまでもありません。

平時には過小評価、有事には過大評価されるリスク

 リスク許容性というのは、実はそれほど定まったものではありません。リスクは実感されないときには対処が遅れ、ひとたび意識に上ったとたんに人々の行動を大きく縛る要因となる。平時には過小評価され、いざことが起こったときには過大評価されがち。それがリスクというものなのです。

 不確実性とリスクを混同する人も多いのですが、不確実性とは、極言すれば、いつどこで何がどのようにどれほどの確率で起こるかがわからない、というもの。リスクは、それがある程度定量的に計算可能になっている段階を言います。

 人間は全知全能の神ではないので、不確実性がゼロになることは永遠にありません。つまり、リスクがそこにあるとか、まだまだ分からないことが多いというのは、安全保障の世界にいる人間にとっては、動かない/動けない理由にはならない。不確実性やリスクとともに生きていくことが大前提となります。

 社会がリスクをどのように認識するかは常に主観的なものであり、その認識のしかたには、政治やマスコミュニケーションが大きな役割を果たします。コロナ禍に翻弄されたこの1年、もっと言えばコロナが世界的に感染拡大した2年間を通じ、この点において日本及び世界のマスメディアや政治は、全く及第点ではなかったというべきでしょう。

「安全保障化」を地でいった社会の反応

 コロナ禍における社会の反応は、国際政治学からみれば「安全保障化=securitization」(オレ・ウィーバー)を地でいった事例と言えます。「安全保障化」とは、従来は安全保障上の問題ではないとみなされてきたものが、安全保障課題として捉えられるようになる現象を意味します。異常気象や災害をもたらす気候変動問題、テロ、パンデミックのようなものが例として挙げられます。このように、パンデミックが新たな安全保障問題となるだろうという指摘はこれまでも普通に存在していました。

 安全保障化という概念の枠組みは、安全保障をより広くとらえ、政策当事者らの優先順位を変えさせるとして、しばしば肯定的に捉えられてきました。確かに、安全保障化によって、これまで軽視されてきた政策や対応の優先順位がぐっとあがるのは、良い側面といえるでしょう。

 ただ、安全保障化に伴う“恐怖”は、当然のように副作用を生み出します。たとえば、権力行使の範囲を拡大したり、自由な経済社会活動を抑圧したり、市民の相互監視や人権侵害をもたらしたりしがちです。多数派の認識の前面に恐怖が躍り出ることによって、多数派でない人々の権利は軽く見られてしまう。こうした事態を利用しようとする政治家が出てくるのではないか、というのは、かねてから懸念されていたことでした。

 そして、この2年間の経験が教えてくれたこととは、それが必ずしも政治家に限定された行為ではなく、おそらくは悪意に基づくものですらないということでした。善意に基づく正義を追求する一方で、それとは裏腹に、現実と奇妙に折り合いをつけて副作用を受忍してしまう。この組み合わせは、むしろ政治に対して無知な人々にこそ顕著でした。

 いったん大きな流れが出来てしまえば、もはや何がどうであったかも顧みられることもない。一つの正義に即した新たな情報を、次から次へと追ってしまう。脅威認識を支える不確実性やリスクはあとからあとから湧いてきます。もはや安全保障上の最優先事項なのだから、その脅威に言及していれば形が付くという事態です。

 その意味では、「やりすぎるくらいがいい」と表明した岸田文雄政権は、まさにこの波に乗っているさなかであると考えられます。対抗者が不在なまま、中心なき集団的選択として、コロナ対策がとられているということです。

拡大オミクロン株の水際対策などについて取材に応じる岸田文雄首相=2021年11月29日、首相官邸

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筆者

三浦瑠麗

三浦瑠麗(みうら・るり) 国際政治学者・山猫総合研究所代表

1980年神奈川県茅ケ崎市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。専門は国際政治、比較政治。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。著書に『シビリアンの戦争―デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)、『「トランプ時代」の新世界秩序』(潮新書)、『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書)、『21世紀の戦争と平和 徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』(新潮社)など。政治外交評論のブログ「山猫日記」を主宰。公式メールマガジン、三浦瑠麗の「自分で考えるための政治の話」をプレジデント社から発行中。共同通信「報道と読者」委員会第8期、9期委員、読売新聞読書委員。近著に『日本の分断―私たちの民主主義の未来について』(文春新書)。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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