自民党の派閥政治全盛の時代に突然リーダーになった異質の人
2022年01月22日
海部俊樹元首相が1月9日、亡くなった。享年91。
筆者は、政治部に異動して1年目の1989(平成元)年夏、海部首相の「総理番」になった。もう30年以上も前になるこの年は、思えばひどい春夏だった。
紆余曲折を経て導入された消費税がスタートした4月1日から、竹下登首相の総理番をはじめたが、3週間後、前年から政界を揺るがせていた「リクルート事件」に関わったとして、竹下首相が退陣を表明する。
後継を巡り、政界は揺れた。2カ月ほど、すったものだの政局の末、宇野宗佑首相が後継に選出されたが、すぐに週刊誌が女性スキャンダルを報じたうえ、7月の参院選で惨敗して退陣。またもや政局である。
それまで首相候補の下馬評に挙がっていなかったことが、清新さと見え、河本派という小派閥が支えだったことが御しやすいとも判断されて、小沢一郎氏ら当時の権力派閥・竹下派の主導により海部首相が誕生した。筆者は政治記者になって半年と経(た)たぬうちに、3人目の首相の番をすることになった。
自民党総裁選が終わるや、国会での首相指名を待たず、まずは「総裁番」として傍に立つのが、総理番記者の習わしである。今にしてみればおかしな話だが当時、番記者は個別に首相に話しかけてはいけないという「業界ルール」があった。
首相官邸クラブのキャップから、「海部氏が組閣本部のある国会近くのホテルに入るから行け」と指示があり、玄関口に先回りすると、果たせるかな、番は自分一人しかいない。
玄関から入ってきた海部氏は、愛想よくホテル客に手を振ったりしていたが、そのままエレベーターに一人で乗り込んだ。遅れてはならじと慌てて滑り込むと、扉が閉まるなり海部氏はドスンと音を立ててぶつかるように横壁に寄り掛かり、目をつぶって呻(うめ)いた。
「頭に上に、大きな氷の塊が乗っかっている気がする」
確かにそう呻いた。ほかに言いようがない。
エレベーターの中で、ルール通り無言のままいたのは、何とも情けない限りだが、準備のないまま急に日本のリーダーになるというのは、ここまでの重圧なのか、と思うしかなかった。
沈黙のなか、エレベーターは上階に付き、ピコンと音がしてようやく海部氏は目を開けた。驚愕(きょうがく)の顔で、こちらに向かって言ったものだ。
「あんた、誰だ」
それまで見聞きしたどの自民党の政治家とも違う、普通の人だと思った。
数日後、首相に指名を受けた海部氏に、総理番として挨拶してから「総理」と呼びかけると、照れくさそうに言った。
「慣れないなあ。海部さん、と呼んでくれよ」
「皆さんの友情を下さい」
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