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「頭に上に、大きな氷の塊が」と呻いた海部俊樹元首相~普通過ぎる政治家の実相

自民党の派閥政治全盛の時代に突然リーダーになった異質の人

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

拡大「平成」について語る海部俊樹元首相=2018年12月5日、東京都千代田区

 海部俊樹元首相が1月9日、亡くなった。享年91。

「総理番」になった3人目の首相

 筆者は、政治部に異動して1年目の1989(平成元)年夏、海部首相の「総理番」になった。もう30年以上も前になるこの年は、思えばひどい春夏だった。

 紆余曲折を経て導入された消費税がスタートした4月1日から、竹下登首相の総理番をはじめたが、3週間後、前年から政界を揺るがせていた「リクルート事件」に関わったとして、竹下首相が退陣を表明する。

 後継を巡り、政界は揺れた。2カ月ほど、すったものだの政局の末、宇野宗佑首相が後継に選出されたが、すぐに週刊誌が女性スキャンダルを報じたうえ、7月の参院選で惨敗して退陣。またもや政局である。

 それまで首相候補の下馬評に挙がっていなかったことが、清新さと見え、河本派という小派閥が支えだったことが御しやすいとも判断されて、小沢一郎氏ら当時の権力派閥・竹下派の主導により海部首相が誕生した。筆者は政治記者になって半年と経(た)たぬうちに、3人目の首相の番をすることになった。

拡大自民党総裁の就任会見にのぞむ海部俊樹氏=1989年8月8日、東京都千代田区永田町1丁目

2人きりのエレベーターで

 自民党総裁選が終わるや、国会での首相指名を待たず、まずは「総裁番」として傍に立つのが、総理番記者の習わしである。今にしてみればおかしな話だが当時、番記者は個別に首相に話しかけてはいけないという「業界ルール」があった。

 首相官邸クラブのキャップから、「海部氏が組閣本部のある国会近くのホテルに入るから行け」と指示があり、玄関口に先回りすると、果たせるかな、番は自分一人しかいない。

 玄関から入ってきた海部氏は、愛想よくホテル客に手を振ったりしていたが、そのままエレベーターに一人で乗り込んだ。遅れてはならじと慌てて滑り込むと、扉が閉まるなり海部氏はドスンと音を立ててぶつかるように横壁に寄り掛かり、目をつぶって呻(うめ)いた。

 「頭に上に、大きな氷の塊が乗っかっている気がする」

 確かにそう呻いた。ほかに言いようがない。

 エレベーターの中で、ルール通り無言のままいたのは、何とも情けない限りだが、準備のないまま急に日本のリーダーになるというのは、ここまでの重圧なのか、と思うしかなかった。

驚愕の顔で「あんた、誰だ」

 沈黙のなか、エレベーターは上階に付き、ピコンと音がしてようやく海部氏は目を開けた。驚愕(きょうがく)の顔で、こちらに向かって言ったものだ。

 「あんた、誰だ」

 それまで見聞きしたどの自民党の政治家とも違う、普通の人だと思った。

 数日後、首相に指名を受けた海部氏に、総理番として挨拶してから「総理」と呼びかけると、照れくさそうに言った。

 「慣れないなあ。海部さん、と呼んでくれよ」


筆者

曽我豪

曽我豪(そが・たけし) 朝日新聞編集委員(政治担当)

1962年生まれ。三重県出身。1985年、東大法卒、朝日新聞入社。熊本支局、西部本社社会部を経て89年政治部。総理番、平河ク・梶山幹事長番、野党ク・民社党担当、文部、建設・国土、労働省など担当。94年、週刊朝日。 オウム事件、阪神大震災、など。テリー伊藤氏の架空政治小説を担当(後に「永田町風雲録」として出版)。97年、政治部 金融国会で「政策新人類」を造語。2000年、月刊誌「論座」副編集長。01年 政治部 小泉政権誕生に遭遇。05年、政治部デスク。07年、編集局編集委員(政治担当)。11年、政治部長。14年、編集委員(政治担当)。15年 東大客員教授

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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